言葉の啓示的輝きに対する感性(正論3月号・古田博司論文とつくもさん) | 果樹園の草むしりおじさんpart2

果樹園の草むしりおじさんpart2

ブログの説明を入力します。


尊敬する古田博司筑波大教授の掲載論文に自分の名前とブログテ-マ「本を読んでも賢くなりません」が印字されている正論三月号古田氏本文を電車のなかで発見したつくもさんが、私のところに来てくれたのが10:30頃でした。


私は「それは光栄なことだ」と言って祝福し、その場で記事を書きました。(「ブロ友さんが正論三月号で紹介されました」2019.2.1参照)

彼女は「信じられないことだ」と言いつつもその光栄に服していました。

翌日、今度は彼女自身が記事に上げ、「神が働いた」とその出来事を解釈したのです。

しかし、さらに翌日(つまり昨日)には落ち込んで、劣等感に苛まれていて、予定していた「恵方巻二本を食う」気力も失せていたのです。

正論3月号は私の手元にはなく、古田論文を読んでもいなかったのでつくもさんにはろくな返答もできない私でした。

つくもさんが来てくれた日はすこぶる体調が悪く、持ってきてくれた保守系三誌にも目を通せませんでした。

以来私はずっとその事ばかりを気にして今朝を迎えました。

私が、持ってきていただいた正論3月号の古田論文を読解しなかったことはブログ友達として致命的ミスであり、そのためにつくもさんの動揺に手を尽くせない、私の責任を痛感していたので、その事ばかりが気になったのです。

今回の古田論文は読んでいないけれども、私は古田先生が政治思想史をどのように見てきたのかを私なりに解釈しています。

古田先生はドイツ観念論とマルクス・レ-ニン主義の出口のない膠着状態とポストモダニズムからの脱却を真剣に考えておられます。

そして、どうやら脱却の糸口をギリシャ的理性の進化形態であるドイツ観念論ではなく、はるか昔の旧約聖書に書かれている詩編から受ける感性に見出だしたようなのです。

信仰者ならば日々の祈りの後に受ける霊的な感性、寺の坊主ならば勤行の後に注がれるみずみずしい感覚とでも言いましょうか…。

それを日常の庶民に照らして表現されたのが先の古田論文だから、古田先生は敢えてつくもさんのブロガ-としての価値を評価したかったのではないかと私は想像するのです。

そのことをどう表現したらいいのか、私は未だに迷っています。

でも私が通過してきた思想史や宗教史から紐解くことができるかもしれません。

また連載になりそうですが、こんがらかったつくもさんの思考の糸を解きほぐせれば幸いなので、挑んでみましょう。

つづく