大学に入学した初めの春。
パリパリの座布団帽子を得意気に被って、大学のバッチを誇らしげに誇示して歩いていた。
だってあの当時の競争倍率は文学部で27倍だったんだから、難関を突破した気分に酔いしれていたのだ。
夜通し道玄坂の「ライオン」でクラシックを聴いて、明け方には南平台をあてどもなく歩いた。
朝の6時頃だったか、向こうからどてらをだらしなくまとい、犬を散歩させている老人がやってきた。
すれ違いざまに挨拶して、顔を見るとその人は岸信介元総理大臣であった。
失礼ですが岸信介先生ですね?
はい、あなたは早稲田の学生さんですね。何を勉強されたいのですか?
はい、私は西洋史学と哲学を勉強したくて受験しました。合格できました。
そうですか、頑張っておやりなさい。
先生、お腹の傷は大丈夫ですか?
いやあ大したことは有りませんよ。国の運命からすれば、ははは
20歳になりかけた青二才の私には衝撃的な出逢いであった。運命の出逢いと言っても過言ではない。
それがきっかけとなって私は岸信介の人生を調べあげたのだ。
彼は恐るべき日本人だった。あまりにも偉大で戦後日本の行く道を命がけで切り開いた人であることを知った。
すれ違った時には分からなかったが、わたしはすごい人に出逢ってしまったのだ。
優しさを満面に浮かべ、包み込むような暖かさをもってはじめて出逢う青二才の私に接してくれた。
その記憶は今でも忘れない。肉感に刻みこまれている。
岸先生は遥か及びもつかない遠くの国の英雄であった。
私の人世はそれで決まった。私が何をすべきかその時に悟った。
私は不思議だが岸派の先生に愛された。
政治や国際情勢の生の情報にいつも接していた。
特に千葉三郎先生に私は愛された。
いつも公用車の後部座席に先生と一緒にすわり、先生が奨めるお菓子を頂きながら政治を教えていただいた。先生は優しいだけじゃなかった。
おかげで私は大変な訓練もうけたのだ。
肥溜めに全身浸かる訓練もさせて頂いて、私は情報畑で生きる人間に育てられたのだ。
私は国防スパイであった。
国を愛するということがどれ程のものか、青二才の私は知らされた。
私は自分の生きている時代をはっきり悟った。
学生時代のそれは有りがたくもあり、辛くもあった。
薔薇色の大学生活を夢見て受験勉強をしたのだが、現実は修羅場であった。
文学部は角マル派の牙城であり、他派閥が鉄パイプをもって襲いかかり何人も死んでしまった。
校舎も放火され焼失した。
誰も共産主義に立ち向かうことはなかった。私以外には…。
共産主義と闘うのは腕力ではなく知力が勝負だったから私は沢山の書物を勉強した。
「人はパンのみに生きるのではなく、神の口から出るみ言葉で生きるのである」
としたイエスの言葉に支えられ、資本論から読破した。
だから私は共産主義に関して実に詳しいのだ。
岸先生はアメリカと戦った中心的な指導者のひとりであった。ために東京裁判では罪なき罪を裁かれ、巣鴨プリズンに収監されたA級戦犯である。
人情からすれば憎きアメリカである。アメリカは彼の恩讐である。
サンフランシスコ講和により東京裁判は国際的に免除され日本は独立を回復した。朝鮮動乱がそうさせた。
岸先生は政界に出て短期間の内に総理大臣になった。
アジアを歴訪し、コンセンサスを束ねてアイク(アイゼンハワ-大統領)に会いに行った。
アイクはゴルフ場で岸先生を迎えた。
日米新時代が開かれたのだ。
憎き恩讐を親友にした男が岸先生だった。
人知を越えた眼力、未来力を先生は巣鴨の牢獄で学んだのだ。
私はこんなに凄い人に若干20で出逢ってしまった。
岸先生が私に人生の出発点を与えて下さったのだ。