ですが自分が救われようとする信仰者ではありません。
私は自分の救いを望んで信仰しているのではありません。
ひたすら真実に辿り着きたい一心で、方策の一つとして信仰があるのです。
信仰者ですから私は祈ります。
小さな私が、広大で無限な宇宙の主管者に思いのたけを語る私からの発信が祈りです。
神は形がないので見えません。しかし、見えるようにもしてくれます。火の玉とかキリストの体を着て現れることもあります。
神に形が無いのは、法則に形がないのと同じです。
形が無くとも私を抱き締めたりおんぶすることもできます。
必要なら山を吹き飛ばしたり、天体を爆発させたりもできます。
声帯がないのに喋ることもできます。
多分神は宇宙創造の第一原因として広大な宇宙と生き物の運行を司るには無形でいるのが一番いいと考えてご自分の在り方をそうされたに違いありません。
絵馬に書くような〇〇頂戴の祈りは論外ですが、真剣な祈りを神が無視することは絶対にありません。
供え物をしてご利益を賜るような取り引きが大嫌いな神であります。
そのような時代もありましたが、旧約聖書の時代でした。土より劣る身となった人間に神は直接対応することができないから、天使にやらせたのです。
真心を込めた万物(供え物)を先に立てて人間として認めて貰おうというのが旧約時代です。
しかし、ロ-マの属国であったユダヤにイエスが現れて、神と人間の関係は父子の関係だと宣言してから時代は変わりました。
天使ではなく神が直接人間と関われる時代が到来したのです。これがイエスの功績です。
いかに神が人間の親であるという立場から疎外されてきたのかを知るべきです。
私は祈る時、お父様、親父、父ちゃんという呼び名を使います。
「お父ちゃん」を連呼しながら泣き叫ぶときがあります。
国際情勢がままならぬ時に私の打つ手が見当たらず、焦りまくる時にこのような断末魔の祈りをします。
私はいつも神から叱られます。
直接神の声が聞こえてきます。
「果樹園よ、愛から見なければ何も分からない」