70年生きてきて妻も子も孫もおり、家族からはおじいちゃんと呼ばれている。
その意味ではやはり「老」かも知れないが、どうも敬われるような存在でもなさそうだ。
家内は娘の家族を案じるあまりまるで召し使いのように支えている。
私は何も言わないが家内の疲れきった顔を見ると胸が痛む。
子の世代はライオンさんと熊さんが仲良くし、従関係を教育されて来なかったからかしこまる、敬う心があるんだろうかと、生活のひとこまに感じることがある。
我と我が身を振り替えれば両親を敬える心が宿った時にはすでに他界していた。
また自分が敬われる対象かと考えても、そんなに偉くなんかないのであり、孫から親しみを込めて「おじいちゃん」と呼ばれるのが一番ふさわしいのだ。
では敬老の日とは何であろうか?老人は介護つき老人ホ-ムで看護婦さん相手に過ごしている。
老人同士が親しく付き合っており、縦社会ではなく横で繋がっている。
家族は別次元の生活をしており、たまに訪ねるだけだ。
私は仕事で介護つき老人ホ-ムに行く機会があり、看護婦さんと老人の会話の場面を見る。
その光景は保育園や幼稚園そっくりだ。
老人は介護さんから上から目線で親しく「ちゃん」付けであれこれ指示される。
老人集めて管理社会を作るのが老人ホ-ムなのかとこの新しいビジネスを見てしまう。
家族がバラバラになり、「敬老」の居場所なんかないのじゃないかな!とふと考えてしまうのだ。
縦横の心の秩序が養われるところは家庭にあるのだが、老々介護、核家族の時代ではそれが難しくなった。
武家社会では言葉使いから上下左右関係がはっきりしていた。私はそれを埋没させてはならないと思うんだが、いまは「ちゃん」の世の中だ。