よく言われるのが「だ埼玉」「川向こう」「芋の形」(笑)、良く言われたことがありません。
そんな汚名もあるせいか、役所の皆さんは「彩の国埼玉」と自らを誇るイメージを仕上げました。
彩りなどという抽象を裏付けるものがあるとは、私には到底思えません。(笑)
彩りというよりは地味というのが相応しいと思います。
埼玉を「いいな」と思っているのは埼玉県人だけかもしれません。
もちろん私は「いいな」と思っていますが、「どこが?」と聞かれると答えに窮すると思います(笑)。
関東平野に日本の政治の中心ができた江戸初期には人影もまばらな過疎地域でしたが、江戸城を中心に日本中から人が集まり、太田道灌の時には100人足らずの町が100万都市となり、明治維新以後も増え続けました。
東京を境に関西方面からきた人は東京の西側から神奈川に住み、東側から埼玉には東北から人が集まりました。
ちなみに私の父は山形県から東京に職を求めて上京した四男坊です。
家の後を継ぐのは長男ですから、次男以下は家を出て自立しなければなりませんでした。
だから東京を中心に人口が増えたのです。
埼玉で由緒ある町は皆宿場として栄えた街で、いわば中仙道や水戸街道沿いの参勤交代一群の通り道だったのです。
水戸街道で団子を売っていた茶屋が売れ残りの団子を平に潰して焼いたのが草加煎餅となりました。
海のない埼玉県はお殿様をもてなすのに鰻や鯰、鯉を用いましたのでその名残で川魚料理は名物となりました。
首都の消費を支える穀倉地帯でもあり、首都で働くサラリーマンのベッドタウンでもある埼玉県は首都のためにあると言っても過言ではありません。
本来は武蔵野であり、私はその面影を忍ばせる自然の風景を誇りに思っているのです。