自分自身の覚書として。。


俳優の中に、
行動とセリフを生む原因となる部分、
「驚き(レセプション無色)判断、考え、相手をキャッチ、(内的行動)」
の部分が抜けると
お客さんは
共感・共鳴的に理解することができなくなる。

だから考えて頭で理解しようとする。

過程を俳優がちゃんと追体験することで、お客さんがともに追体験できるスペースを作ってあげること。
もちろん、それが俳優内部に自然に生まれる状態になればそれは問題ないのだが、そうなるとは限らなくて、それが偶然に発生してこない時でも、俳優は習慣的にそういう演技ができちゃうようになっていると良い。

習慣的になっていないのであれば、スキルとして意図して毎回確実にそれを作れば良い。
という、段階の話。

 

本日ドラマトライアル終了。
今回は
昨年半ばから気づいて苦しんでいた現状の行き止まりについて
ブレイクスルーが生まれた体験だった(稽古でだったが)。
本当に素晴らしい段階に突入した。

「卒塔婆小町」ではそれが本番にもうまく影響したけれど
今日の「楽屋」はさらに凄い気づきが生まれた。

それは
失敗と成功という両方の形で本番に生まれ
絶望と希望の両面として
本番に生まれたからこそ印象も強烈で
両者の比較から非常に大きな成果につながった。

 

稽古は引き続き繊細に完璧につくり込む。

しかし本番では
俳優内部に、俳優とは別の役そのもの(第3の存在ってのがこれで変身がこれだな)が生まれ育っていること。
その存在を感じ、その存在自体を信じて、それに生き生きと活躍する許可を与えてあげること。
これが、今まで「手放す」という簡単な言葉で言われてきたものの詳細だった。
これが多分、今のところ間違いなく、演技の「芸術」的形象。

 

今年はこの塩梅をメンバー全員がつかむこと。

面白いことになった。

稽古の時間が削られ絶望的な気持ちにもなったが、だからこそ時間をかけて稽古する以外の方法での濃縮された強力な気づきが生まれた。

神の采配。感謝。

 

Prayers Studio演出家 渡部朋彦