
出典は『市原市史』資料集(近世篇3上)です。
最近、元禄8年(1695)~宝永4年(1707)にかけて起きた「お竹騒動」について、先行調査研究を確認する必要が出てきたので、迎田の根本幸雄氏が書いた「おたけ騒動」「三宅嶋流刑消息」(『市原地方史研究』1、14号所載)を読んでいたところ、お竹騒動で流刑になった一人迎田村名主根本七郎兵衛の弟が今富根本家(後、千葉家)に養子に入り、根本弥五左衛門と名のったという記事がでてきました。
今富千葉家については、わたしも研究させていただいており、これを契機に、この人物が何代目に当たる人かを墓石の写しや、『市原市史』資料集などを分析して精査すると、以前拙稿「旧市原郡今富村本陣名主千葉家の歴史」に当家のことを書かせて戴いた際には、資料に乏しいために、もはや正確にはわからないものと諦めていた江戸期のことが、次々とわかりだし、さらにはこの拙稿においては、当主の代数を誤認していたり、同一人物を別人物と取り扱っていたりなど、いくつかの誤りをしていたことに気づきました。
また以前には、墓石の中に、当主を務めた可能性があるものを数基みつけていたものの、判断がつかないまま、保留にしていた件についても、各人物を生没年、没年月日をたよりに年表に位置づけて世代計算したり、さらに肇祖より何代目、精胤より何代の孫などと代数を記した五人の記事を頼りに再整理したりすると、これらも適切に位置づけられるようになりました。
この結果、迎田村名主根本家から養子に入った人物は、当家五代目の亮重(のちに精映、精光と改名)にあたり、さらに船橋市立西図書館所蔵の紀行文「浜路のつと」記載の錦翠主は九代目根本孝胤、とし子がその九女で、のちに江戸佃屋庄蔵に嫁し、須美と名を変えた人物に当たり、栄呂院はこの佃屋庄蔵(日好姓)と思われ、根本伝内は後の根本宣胤にあたることもわかりました
誤植、誤認などの訂正については、すでに別記の「拙著誤植報告」に追加しましたので、今富千葉家に関する拙旧稿をご覧の方々には、何卒、該当箇所にお目通しいただけますようにお願い致します。