「千葉県市原市における漢文石碑・資料の翻刻(七)」が『東洋学研究』第六十三号(東洋大学東洋学研究所刊)に掲載されました。
このたびは、旧不入斗村(いりやまず)関連の資料を扱いました。この地区にも『千葉県の歴史』『市原市史』などが取りこぼしている重要な資料、歴史的事実が多く眠っています。
まず、旧不入斗村最古の家と言われ、代々、割元名主や名主を歴任した鈴木家(屋号「上(かみ)」、「丈大夫」)については、いままで、何もかも解らないことだらけでしたが、この度の筆者による包括的研究により、漢文碑の内容についてのみならず、江戸初期以来の歴代当主も歴代に渡って全て明らかとなりました。
当家墓地には、漢文碑「好学院墓碑」がありますが、この好学院は、通称を鈴木左膳といい、漢詩に堪能で、将軍家の御殿医に医学を教わった夭折の才人でした。この人物は、七代目(江戸初期の当主を仮に初代とする。以下この計算法に拠る)鈴木源蔵正楽の子にあたることがわかりました。また、当家には珍しく女性の功績を記した漢文碑「佐久間妙徹夫人墓表」(新発見)がありますが、その主役佐久間豊は、十代鈴木太郎太夫運則の妻に当たり、養父とともに遺児を守り育てたことが賞賛されています。さらに漢文碑「村長髙山鈴木氏墓碑銘幷序」(新発見)は、優れた名主であった人格者、十一代目鈴木太郎太夫敬路の事績を綴っていて、江戸末期の地方行政の実態を窺わせる貴重資料です。
なお、このたびの研究では、千葉県最古の算額を残した鈴木丈助俊直は、九代目当主にあたる人で、千葉県最大の連座事件ともいわれる「おたけ騒動」における犠牲者不入斗村名主縫之丞も、やはり当家の先祖にあたり、当家四代目にあたる人物だったこともわかりました。
次に、このたび海保の佐々木清幸氏のご協力のおかげで、『市原郡誌』で海保庄の領主として語られ、海保、町田、不入斗にわたって子孫を広げた佐々木(進藤)一族の足跡が初めて明確に、信頼を置ける形でわかったため、これについて記したうえで、不入斗進藤家墓碑(文化二年)を紹介しました。海保から不入斗にかけての当佐々木(進藤)一族には、名門としての多くの伝説があり、本稿はこれにつき『市原郡誌』以来、初めて本格的に取り扱ったものとなります。また、不入斗進藤家墓碑には二首の漢詩がきざまれており、これはすでに文化年間にこの一帯に漢詩を含めた文化サークルが存在したことを立証する貴重な資料といえます。
最後に、不入斗永藤(ながふじ)地区某家のご協力により、漢学者井上桜塘の新発見資料を掲載することができました。井上桜塘は、明治を代表する詩社・旧雨社の同人で、一流の漢学者です。すでに坂口筑母により、桜塘自身による履歴書を翻刻して紹介する形で、明治10年代までの足跡が紹介されていますが、それ以後のことは全く不明でした。ただ、姉崎の先駆的郷土史家斎藤孝がその著「姉崎町古今記録」(『市原市史』資料集3下、753頁)にその名を紹介しているのと、姉崎の妙経寺に墓石があるために、晩年は姉崎附近にいたであろうことが地元の一部の郷土史家に知られるにとどまっていました。
本稿では、上掲資料の掲載にとどまらず、上掲の坂口筑母の翻刻が誤字だらけであり、考察も説明も加えていないために、一般に誤解を招いていることを鑑み(例えば、『国書人名辞典』(岩波書店)の井上桜塘記事は、この坂口の著述を誤解して読んでいるために、不正確な記事となっています)、改めてその翻刻を訂正し、現在の研究水準に照らして考察を加えて井上桜塘研究の基礎を敷くところまで行いました。
なお、このたびは市原市深城の無量寿寺住職・土澤弘太師にも貴重な資料提供を戴きました。また、千葉県最古の算額をのこした鈴木丈助俊直が九代目当主にあたることについては、埼玉県の佐藤信之氏の鈴木丈助俊直と鈴木源蔵を同定する発見あってのものでした。お二方にもこの場を借りて、深甚の謝意を申し上げます。

ご協力いただいた方には、
これから漸次に拙稿を送らせていただきます。