そういいながら、男がカウンターの上にあるランプを灯すと、黄色い光が茶色いしみが所々に浮かんだページを照らした。
ミスター アンド ミセス S でおられますね、旦那。
お部屋は、この上のヒマラヤン・スイートがよろしいかと…
窓から、ヒマラヤの見渡せるお部屋でございます。
Aが、私をミセス S(彼の妻)として記帳したのは、3人の暗黙の了解である。
暖炉に火を入れてもらえるか、とAがきいた。
もちろんでございます。いまから薪を運ばせますんで、旦那。
多分100年前から変わっていないであろう木の階段であった。柔らかに軋んだ音がする。手すりには無数の傷がついているが、角がなく、触れると人肌のような温かさと、掌が吸い付くような感じがした。
踊り場には、高い窓。急速に濃くなりつつある闇が、かろうじて見える木々の枝を黒々と浮き上がらせている。
登り切ると、白い壁に黒いドア。
そのドアが開けられると、天井が、屋根まで続く部屋があり、その天窓の薄明かりで、向こうにもうひとつ両開きドアが見えた。
ヒマラヤが見渡せるはずの窓は見えない。
奥様、こちらでございますよ。
向こうのドアが、ギシ、と音を立てて開かれると、向こうがわにヴェランダのような部屋が見えた。
部屋の一面は窓となっており、すべて外側に向かって開け放たれている。
その向こうにはすでに漆黒の闇が広がっているのみだが、朝にはここからヒマラヤが見えるのであろう。
それじゃ旦那、今暖炉に火を入れさせますんで。
すまないが、ウィスキーは手に入るかな、今からでも。
もちろんですとも、ラニケット・クラブまで使いを走らせます。
ローヤルスタッグ、ブラック アンド ホワイト、お好みは何です?
ああ、それから、奥様のお食事はいかがいたしましょう…
ふたりきりになると、部屋の寒さが際立って感じられた。
なんといっても避暑地の真冬である。
旦那。旦那…というかすれた呼び声とともに、遠慮したような小さなノックの音がした。
こちらがドアを開ける前に、割ったばかりのような切口の白い薪を抱えて少年が部屋に入ってきた。
そのまま暖炉に薪をくべ、灯油を使って火をつけると、こちらへは見向きもせず、しばらく黙ったまま火掻き棒を使っている。
火がいきわたり、煙がなくなると、少年は小さな灯油の瓶をもって出て行った。階段を走り降りる音。
半時間ほどすると、痛いような湿ったような冷たさが追いやられ、ようやく部屋の空気が緩んで、人心地がついた。
君はね、ここでは僕を名前で呼んでは、いけないよ。
Aが、冗談めかして言う。
では、なんと呼んだらいいの。
名前なんて呼ぶ必要もないさ。
インドの”地方”では、妻が敬愛する夫の名前を口にすることは、いけないこととされている。
夫は、妻にとっての神であるからである。
ただ、同じインドでも、Aの生活しているような都市では、妻も夫を呼び捨てにするのが普通である。
別にどうということもないし、地方の人も都会人はそんなものだととわきまえている。
ということは、暗黙の了解であるからこそ、お互いの気まずさを避けるために演じ続ける、ということなのだろう。
またノックの音がして、ドアを開けると、ブラック アンド ホワイトのボトルとグラスをトレイに乗せた男がにこやかに入ってきた。
Aは、ひとつのグラスをとり、その縁までウィスキーを注ぐと、運転手に渡すようにと指示している。
一緒に一杯、どうです。
社交儀礼で、Aが男にも聞いた。
男は、めっそうもないというように手を振り、
いえいえ、ありがとうございます、旦那。
まだ、仕事がありますんで。
いえ、旦那がどうしてもと仰るんなら、ここにちょっといただいてまいりますが…
と、持ってきたグラスのひとつを差し出し、琥珀色の液体がなみなみと注がれるのを待って、何かあればこのベルを鳴らしてくれ、と言うと下がっていった。
運ばれてきた銀のトレイの上には、グラスがまだ2つのっているのが不思議だった。
暖炉の火が燃えている。
100年前、この暖炉の前の安楽椅子に腰掛けて、同じように炎を眺めていたのはどんな人だろうか。
頬が火照るくらい近くによって、炎を見つめていると、その人たちの顔が浮かんでは、次々と炎に飲み込まれていくような気がした。
火の燃える音と、樹脂が燃えてはじけるパチパチという音しか聞こえない。
階下にも物音はなく、Aもグラスを片手に黙って炎を見つめている。
時計を見ると午後7時を回ったばかりである。
しばらくすると、食事のトレイが届いた。
Rose Mount-Ranikhet と銀で銘の入った白いお皿にサンドイッチとフレンチフライがのっている。
ことさらおいしくも、まずくもなかったが、誰が料理をしたのだろう、となんとはなしに気になった。
暖炉に火をつけに来た少年か、ショールの男か、それともラニケットクラブまでボトルを取りに行ったネパール人の使用人だろうか。
ちろちろと燃えている暖炉の火に向かって、とりとめもなく考えていると、タバコの煙の向こうで、ふとAがいう。
人はほとんどいないのになにか気配がある、古い建物だからだね。
イギリス時代の社交クラブであったのだから、さまざまなドラマがあったに違いない。
避暑地といえば、お隠れで行く場所でもあるし、いわくつきのふたりなど今日に始まったことではあるまい。
そういえば、部屋のあちこちから視線を感じるのである。
同類を見るような、批判するような、そして羨むような…
インド、ヒマラヤのふもとの山奥で繰り広げられた、さまざまな情事に乾杯。
真っ白いシーツの合間に、暖炉の火で火照った体を滑り込ませると、その冷たさが心地よかった。
見上げると、高い天井の天窓が見える。
明日の朝は、あの窓からヒマラヤに昇る朝日を眺めよう、と眠たげにAが囁いた。
あの晩、Aと私はふたりきりではなかったと、今でも思う。