fountain


なぜか無性になつかしく、心惹かれる場所やひとと出会うことがあります。


そんな場所や人とは、やはり前世で何らかのつながりがあったのでしょうか。


以前訪れたマラケシュ(モロッコ)で、建物の中にある噴水を見たとき、幾何学模様の青いタイルのその部屋で立ちすくんでしまいました。


まったく思いもよらない場所で、懐かしさとともに一種異様な感覚にとらわれて唖然としました。静寂な小さな噴水が私の前世とどういうつながりがあるのかは、もちろんわかりません。


そういえば、こんな不思議な出会いもありました。


その人とは別の国に住み、全く見ず知らずでしたが、初めて顔を見たときになぜかとても心惹かれました。そのときにはいくつか言葉を交わしただけでした。


数年後、次に出会ったとき、お互い以前出会ったことがある事実には気が付きませんでした。


それなのに心惹かれあい、会話もほとんどしないまま深い絆を持つこととなりました。


そのあとで、君とは以前に一度遭ったことがあるでしょう、と言われハッとしたのです。


そういえば、あの時にあの場所で言葉を交わしたことがあった、あれはあなただった、と思い出してお互いに驚きました。


幾度か逢瀬がありました。


その後インドに行くことなり、私は結婚をしました。


シンガポール初めて戻った日、空港を出ようとしたときに、またその人が目の前にいたのです。言葉を失いました。


さらに数年後、主人と子供たちとともに、デリーからコロンボに向かう機内で、耳にした声にどきりとして見上げると、やはりその人でした。


驚きを通り超えて、もうこれは断つことのできない因縁なのだと悟り、見つめたその人の顔もまた、そうだよ、というように微笑んでいました。


radha krisna

kisko bhulaye
kisko rakhkhe yaad
sambhab hota to
khudko bhula deta
tumhe rakhe huye yaad

忘れることのできない人から、メッセージが届きました。

時々届いていた連絡がしばらく途絶え、気になって、忘れてしまったのですか、とこちらから送ったメッセージへの返事でした。

ベンガル人の彼は、深い深い眠りに落ちていくまでタゴールの歌をうたってくれました。

彼の硬くて滑らかな肌に頬をつけると、強い鼓動とともに暖かさが伝わってきて、なぜか涙があふれてくるのでした。

ある日手渡されたのは、クリシュナとラダの戯れる美しい絵。
クリシュナは美しい褐色の青年ですが、ヴィシュヌの生まれ変わりであり、神です。
ラダは人妻ですが、クリシュナの誘惑に逆らうことができず、ふたりは逢瀬を重ねます。

その頃、私はまだ結婚していませんでした。
本当は、彼のプロポーズを待っていたのです。

でも、一足遅かった。
彼が、君をうちに迎えたい、といってくれたときは、すでに、その夜のデリー行きのRajdhani Expressに乗ることに決めていました。

引き止めることをしない彼が恨めしく、列車の中まで送ってくれた彼に涙を見せると、

もう泣いてはいけないよ、きみ、行くと決めたのだから。

と言い、近くにいた東北部からの女の人たちのグループに、すみませんが、よろしくお願いします、と声をかけると振り返ることもせず、列車から降りていきました。

それから3年ほどたって、私は別の人と結婚しました。

結婚をした年のホーリに、彼からのメッセージが届きました。

どうしていますか
僕の心は あの日君に渡したままです
結婚をするつもりはありません
でも 君が気にする必要はありません
ただ伝えておきたかっただけだから
君だけの Dより

今はもう、泣きながら列車に乗ったあの日から、かれこれ8年が経ちました。

ドゥルガ・プジャ、ビフ、ホーリの季節になると、きまって短い便りが届きます。

こちらからも、お父様はどうされていますか、とか、結婚された妹さんのかわいい赤ちゃんは、いくつになりましたか、などと返事を送ります。

そんなふうに彼とのやり取りは、一見他愛のないものす。
たとえ再び出会うことがあっても、お互いへの想いを確かめあうことはないでしょう。

ただ、今度送られてきたメッセージを読んで、彼と私の因縁は実は深いものであるのだ、と悟りました。

誰を忘れたというのですか
誰のことを覚えていればよいのですか

許されるのであれば

僕は自分自身を忘却し
君だけを僕の記憶に住まわせたに違いない


私が、彼の心に住まうラダであれば、
彼は私の魂が永遠に求めて止まないクリシュナとして、私たちの想いは成就したのでしょうか。




bed tea

ベッド・ティー という言葉がある。

色気のある言葉。

言葉もいいけれど、本物はもっといい。

朝目覚まし時計の変わりに、サーバントやホテルのボーイが紅茶をベッドまで運んでくれるのである。
トレイを運んでくるのは、夫や、恋人、友人などではいけない。

昨夜の余韻でシーツにくるまれているだけであっても、ノックの音がしたら、誰かさんの重たい腕をあちらに押しやって、寝乱れた髪のまま、ガウンを羽織り、ドアを開けに立たなければならない。

おはようございます、マダム。
ボーイの視線は、瞬時に私のいでたちから、ベッドをすぎて、すでにドアの外に向けられている。

ありがとう、といってドアを閉め、ベッドに戻ると、誰かさんはただ寝返りを打って、まだ夢の中のよう。

そんな背中を見やりながら、熱い紅茶をポットから注ぐ。

午前6時20分。

インドでは、朝日の昇りつつある時間。

もっとも、心も体も満たされたひとときである。

ローズマウント荘 1

そういいながら、男がカウンターの上にあるランプを灯すと、黄色い光が茶色いしみが所々に浮かんだページを照らした。

ミスター アンド ミセス S でおられますね、旦那。
お部屋は、この上のヒマラヤン・スイートがよろしいかと…
窓から、ヒマラヤの見渡せるお部屋でございます。

Aが、私をミセス S(彼の妻)として記帳したのは、3人の暗黙の了解である。

暖炉に火を入れてもらえるか、とAがきいた。

もちろんでございます。いまから薪を運ばせますんで、旦那。

多分100年前から変わっていないであろう木の階段であった。柔らかに軋んだ音がする。手すりには無数の傷がついているが、角がなく、触れると人肌のような温かさと、掌が吸い付くような感じがした。

踊り場には、高い窓。急速に濃くなりつつある闇が、かろうじて見える木々の枝を黒々と浮き上がらせている。

登り切ると、白い壁に黒いドア。
そのドアが開けられると、天井が、屋根まで続く部屋があり、その天窓の薄明かりで、向こうにもうひとつ両開きドアが見えた。

ヒマラヤが見渡せるはずの窓は見えない。

奥様、こちらでございますよ。

向こうのドアが、ギシ、と音を立てて開かれると、向こうがわにヴェランダのような部屋が見えた。
部屋の一面は窓となっており、すべて外側に向かって開け放たれている。
その向こうにはすでに漆黒の闇が広がっているのみだが、朝にはここからヒマラヤが見えるのであろう。

それじゃ旦那、今暖炉に火を入れさせますんで。

すまないが、ウィスキーは手に入るかな、今からでも。

もちろんですとも、ラニケット・クラブまで使いを走らせます。
ローヤルスタッグ、ブラック アンド ホワイト、お好みは何です?
ああ、それから、奥様のお食事はいかがいたしましょう…

ふたりきりになると、部屋の寒さが際立って感じられた。
なんといっても避暑地の真冬である。

旦那。旦那…というかすれた呼び声とともに、遠慮したような小さなノックの音がした。

こちらがドアを開ける前に、割ったばかりのような切口の白い薪を抱えて少年が部屋に入ってきた。
そのまま暖炉に薪をくべ、灯油を使って火をつけると、こちらへは見向きもせず、しばらく黙ったまま火掻き棒を使っている。

火がいきわたり、煙がなくなると、少年は小さな灯油の瓶をもって出て行った。階段を走り降りる音。

半時間ほどすると、痛いような湿ったような冷たさが追いやられ、ようやく部屋の空気が緩んで、人心地がついた。

君はね、ここでは僕を名前で呼んでは、いけないよ。
Aが、冗談めかして言う。

では、なんと呼んだらいいの。

名前なんて呼ぶ必要もないさ。

インドの”地方”では、妻が敬愛する夫の名前を口にすることは、いけないこととされている。
夫は、妻にとっての神であるからである。

ただ、同じインドでも、Aの生活しているような都市では、妻も夫を呼び捨てにするのが普通である。
別にどうということもないし、地方の人も都会人はそんなものだととわきまえている。

ということは、暗黙の了解であるからこそ、お互いの気まずさを避けるために演じ続ける、ということなのだろう。

またノックの音がして、ドアを開けると、ブラック アンド ホワイトのボトルとグラスをトレイに乗せた男がにこやかに入ってきた。

Aは、ひとつのグラスをとり、その縁までウィスキーを注ぐと、運転手に渡すようにと指示している。

一緒に一杯、どうです。

社交儀礼で、Aが男にも聞いた。

男は、めっそうもないというように手を振り、

いえいえ、ありがとうございます、旦那。
まだ、仕事がありますんで。
いえ、旦那がどうしてもと仰るんなら、ここにちょっといただいてまいりますが…

と、持ってきたグラスのひとつを差し出し、琥珀色の液体がなみなみと注がれるのを待って、何かあればこのベルを鳴らしてくれ、と言うと下がっていった。

運ばれてきた銀のトレイの上には、グラスがまだ2つのっているのが不思議だった。

暖炉の火が燃えている。

100年前、この暖炉の前の安楽椅子に腰掛けて、同じように炎を眺めていたのはどんな人だろうか。

頬が火照るくらい近くによって、炎を見つめていると、その人たちの顔が浮かんでは、次々と炎に飲み込まれていくような気がした。

火の燃える音と、樹脂が燃えてはじけるパチパチという音しか聞こえない。

階下にも物音はなく、Aもグラスを片手に黙って炎を見つめている。

時計を見ると午後7時を回ったばかりである。

しばらくすると、食事のトレイが届いた。
Rose Mount-Ranikhet と銀で銘の入った白いお皿にサンドイッチとフレンチフライがのっている。
ことさらおいしくも、まずくもなかったが、誰が料理をしたのだろう、となんとはなしに気になった。

暖炉に火をつけに来た少年か、ショールの男か、それともラニケットクラブまでボトルを取りに行ったネパール人の使用人だろうか。

ちろちろと燃えている暖炉の火に向かって、とりとめもなく考えていると、タバコの煙の向こうで、ふとAがいう。

人はほとんどいないのになにか気配がある、古い建物だからだね。

イギリス時代の社交クラブであったのだから、さまざまなドラマがあったに違いない。
避暑地といえば、お隠れで行く場所でもあるし、いわくつきのふたりなど今日に始まったことではあるまい。

そういえば、部屋のあちこちから視線を感じるのである。
同類を見るような、批判するような、そして羨むような…

インド、ヒマラヤのふもとの山奥で繰り広げられた、さまざまな情事に乾杯。

真っ白いシーツの合間に、暖炉の火で火照った体を滑り込ませると、その冷たさが心地よかった。
見上げると、高い天井の天窓が見える。

明日の朝は、あの窓からヒマラヤに昇る朝日を眺めよう、と眠たげにAが囁いた。

あの晩、Aと私はふたりきりではなかったと、今でも思う。


himaraya from ranikhet


ラニケットは、真冬。

デリーの人たちなどは、真夏の暑さから逃れるように訪れる高原の避暑地だけど、私のラニケットは小雪のちらつく寒い冬。もちろん避暑客は誰もいない時期でした。

デリーからラムナガールまでは夜行列車で一晩、または車で7時間。
ヒマラヤ丘陵地帯のさまざまなヒル・ステーション(避暑地)や、巡礼地への登り道が、この小さな町ラムナガールから始まります。

イギリス統治時代から残された数々の避暑地。

南インドには、ウーティー、コダイカナル(ここはそんなに古くない)、東インドはダージリン、西インド(ボンベイ近郊)では、マウント・アブーなどが知られてますが、北インドはヒマラヤのお膝元だけあって、著名な避暑地がたくさんあります。

いくつか名前だけ挙げると、ラダック、スリナガール、シムラ、アルモラ、ラニケット、ナイニタル、ムッソーリー…

最近は、夏ごとに押し寄せる都市部の成金の人たちのおかげで、醜い建物が建ち並び、俗悪な雰囲気が漂うような場所が多くなりました。さびしいことです…

イギリス軍の時代から駐屯地であったラニケットは、小さな避暑地で、現在もインド軍の駐屯地です。そのためでしょうか、いくらか落ち着いた雰囲気があります。

寒い寒いある冬の、ラニケットでの思い出です。

----------------------------------------------------------------------------------------------
デリーからラニケットまで360Kmほどの距離である。
デリーを早朝発って、午後3時過ぎにナイニタルを過ぎると、さらに55Km、一車線の山道が続く。

Ranikhetという小さな道しるべが、道路脇に見えてくると、運転手はメインロードを逸れて、アンバサダーをモールロードに右折させた。ここからは曲がりくねった石畳、道の両脇には松の木がそびえている。

遅い午後の光の中に、軍のレクリエーション・クラブや、石造りの教会、そして古いバンガローが何軒か姿を見せている。赤い屋根。緑の屋根。道を歩いている人もなく、ふとここがインドであることを忘れそうになる。

しばらく行くと一本聳え立つ高い杉の木があり、ローズマウント荘の門が見えてきた。

白い木造にレンガ色の屋根が見える。門を入ると広い庭越しに、夕暮れの黒いヒマラヤが広がっていた。

車を降りると、このあたりでよく羊の番をしているチベタンマスチフの真っ黒な仔犬たちが2匹、毬のように弾んで足元に絡みついてきた。母犬はどこか遠くから、様子を見守っているのだろう。

焚き火のようなかすかな煙の匂い、ヒマラヤのふもとの冬の夕暮れどきの匂いだ。

ローズマウント荘はイギリス時代、社交クラブとして栄えた場所だったという。
玄関の表の壁に大輪の白いつるバラが、よく手入れされて咲いているのが目を引く。

暗い玄関に足を踏み入れたが、誰の姿もない。
山の冷たい夜気が、開けはなれた玄関にそのまま流れ込んでいる。

Aが、チリン、と古びたベルを鳴らすと、真っ白なウールのショールを羽織った初老の男が現れた。
もと軍隊付きであろう、ズボンも白く、背筋が伸びている。
木のカウンターの向こう側で、古ぼけた宿泊客名簿を開く。

いらっしゃいませ、
旦那と奥様はデリーからお見えで…
それは、お疲れでございましょう。
お部屋はすべて空いております、
はい、お客様は旦那と奥様だけでございますよ。

つづきはまた明日。