「粘り強さに勝るものはない」ささき みつお(弁護士)

 

1 ノーベル賞温泉

 

 2年ほど前に仕事で山梨県の韮崎市を訪問した折に、地元で有名な日帰り

 

温泉施設、「ノーベル賞温泉」に立ち寄った。

 

武田乃郷白山温泉(山梨県) | リュックを背負うと元気になるの♪

 

 正式な名称は、「武田乃郷白山温泉」。

 

 甲斐の武田信玄が築城した「白山城」の麓に湧出した温泉である。

 

 天然かけ流しで、露天風呂からは八ヶ岳、茅ケ岳がまるで一幅の美しい絵画

 

のように眺望できる。

 

 2015年にノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智博士が、生まれ育った

 

韮崎市への恩返しとして2005年に設立した温泉場であり、敷地内には、

 

ノーベル賞博士は日帰り温泉オーナーだった 大村智博士が持つ4つの顔 | 先端科学・研究開発 | 東洋経済オンライン

 

同じく大村氏が設立した美術館と蕎麦屋が併設されている。

                                                        

2 決してあきらめない

 

 最近、大村氏の関係者から白山温泉掘削についてのエピソードを聞いた。

 

 大村氏は私費を投じて温泉を掘ることを思いついたが、地元の各地にはすでに

 

いくつかの温泉があった。

 

 美術品蒐集家でもあった大村氏は、大自然の美しさをそのまま鑑賞できる温泉を

 

造りたいと願って場所を選び、蒐集した美術品はすべて韮崎市に寄贈した。

 

 ところが、温泉の掘削を進めるに従い、次々に固い岩盤にぶつかって工事は

 

難航を極めた。

 

 多くの関係者は途中であきらめて、別の場所を掘るように何度も助言した。

 

 しかし、一度取り組んだからには完成するまであきらめずにやり抜いてきた

 

大村氏は、「温泉は必ず出る。費用が問題なのではない。

 

やり抜くかどうかが問題なのだ」と言い切って断固として掘削を続けた

 

山梨県 武田乃郷「白山温泉」 : …風露愚… 全国温泉めぐり備忘録

 

 そしてついに温泉の水脈を掘り当てたのである。

 

3 粘り強い祈り

 

 神を信じる者はどんなことでも神に祈り求めることができる(ヨハネ15:7)

 

人間の常識では実現不可能なことでも神に願い求めることができるのである

 

(マルコ11:23)

 

 しかし、時には、願ったことがかなえられるまで、失望せずに粘り強く祈る

 

必要がある(ルカ11:5~13)

 

 

 「粘り強く」とは「忍耐強く」という意味である。

 

 願いが大きければ大きいほど、その実現を阻む障害(問題)も大きい。

 

 願い求める過程で様々な試練に遭遇し、神に依存せざるを得なくなる。

 

 その結果、その人の信仰が強化される。

 

 言い換えれば、内なる人(神の子)と内なる神(聖霊)との結びつきが

 

強化されていく。

 

 そこから、どんな苦難にもくじけずに耐え抜いていく忍耐力

 

(練られた品性)が生み出される

 

 

 こうして内なる人(神の子)がキリストのように完全な人として成長して

 

いくのである(ヤコブ1:2~4)。

 

 結果として、内なる神(聖霊)の力によってその人の希望が実現していく。

                                                    

神のみ旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である

(へブル10:36)

 

この世に、粘り強さに勝るものはない。

才能?才能があっても成功できなかった例は枚挙にいとまがない。

天才?報われない天才という言葉は、すでに決まり文句になっている。

教養?世の中は教養ある浮浪者であふれている。

粘り強さと断固たる信念だけが、無限の力を持つのだ

(カルビン・クーリッジ:第30代米国大統領)

 

 

ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。。。ひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。。。彼は、、、心のうちで考えた、『、、、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるであろう』。。。

(ルカ18:1~8)

 

ささき みつお(弁護士)

 

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キリストにある巨人

 

 民数記13章を見ると、約束の地カナン探検隊のヨシュアとカレブ以外は

 

恐れて「私たちはそこには入れない」と言いました。

 

「そこには巨人が住んでいて、私たちはいなごのようだった」と。

 

 そして全会衆は大声で泣き明かし、エジプトに戻ろうとしたのです。

 

 しかし、ヨシュアとカレブは「必ず巨人に打ち勝つことが出来る!

 

と言ったのです!

 

ライス国務長官

 

 ところで、アメリカブッシュ政権で国務長官であった黒人女性

 

コンドリーザ・ライス国務長官を覚えておられるでしょうか。

 

 彼女は人種差別の激しいことで有名なアメリカのアラバマ州で牧師の娘として

 

育ちました。

 

 彼女はひどい差別の中で育ちましたが、しっかりしたアイデンティティを

 

持っていました。

 

「私は黒人として、白人から差別されているけれど、神様は私を差別なさらない。

 

 神様は共にいてくださる」と確信していました。

 

 周りの黒人たちは劣等感や挫折感の中にいたのですが、彼女は深い信仰心

 

もち、イエス様にあって、その信仰はまったく揺るぎませんでした。

 

ホワイトハウス – カイム塗料 | SKWイーストアジア

 

 10歳のとき、両親と伝道旅行に行き、その最終目的地がワシントンDCでした。

 

 そこでホワイトハウスを見学しに行きましたが、白人たちは入場できるのに、

 

黒人たちは中に入ることができず、外の鉄条網から中を覗き込むだけでした。

 

 そのときこの10歳のライスは言いました。

 

Happy Family African American Reunion, Smiling Black Dad Holding Talking To  Kid Daughter, Caring Mixed Race Father Return Back Home Bonding With Child  Girl Enjoy Sweet Moment Of Love And Fatherhood Stock

 

お父さん、私が中に入れないのは肌の色が黒いからですよね?

 

 いつかきっと、私が中に入って見せるわ!」。

 

 そして25年後、彼女は自分の言葉通りにホワイトハウスに入れたのです。

 

 そして黒人女性としては、初めての国務長官になったのです。

 

 彼女はこう言っています。

 

どんな難しいことがあってもただ信仰で解決するだけです。

 

 私はすべてのことを肯定的に見つめます。

 

 何があっても信仰で見つめ、黒人であろうとなかろうと、どんな場合でも

 

条件を見つめず、肯定的に見つめます」。

 

 

 ハレルヤ!

 

 ライス元国務長官は、自分がキリストにあってどのような存在かを

 

はっきり知っているのです。

 

 その身分通りに生きているのです。

 

 彼女においては黒人も白人も東洋人も関係ないのです。

 

 キリストにあって、すべてが可能性に満ちた神様の子どもなのです。

 

 そうです!

 

 私たちは”キリストにある巨人”なのです。

 

 

わたしはあなたに命じたではないか。

 

 強くあれ。雄々しくあれ。

 

 恐れてはならない。おののいてはならない。

 

 あなたが行くところどこででも、あなたの神、【主】があなたとともに

 

おられるのだから。」(ヨシュア1:9)

 

 

 

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

 

 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

 

 わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、

 

あなたを守る。」(イザヤ40:10)

 

 

子どもたち。

 

 あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

 

 あなたがたのうちにおられる方(キリスト)は、この世にいる者よりも

 

偉大だからです。」(第一ヨハネ4:4)

 

 

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サタンのクリスチャン全滅作戦とは?

 

25 Bible Verses About Dreams (With Commentary) - Bible InsideOut

 

 マルチン・ルターが宗教改革に行き詰まり、悩んでいたある日、

 

次のような夢を見ました。

 

Thinking Satan statue - Drawception

 

 そこでは、サタンが世の中のクリスチャンたちを全滅させる作戦を練りながら、

 

部下の悪霊共から報告を受けていました。

 

 最初の悪霊が前に来て、報告しました。

 

「サタン様。私はクリスチャンたちに人生の砂漠を歩かせ、そこにライオンを

 

送り込み、彼らに噛み付き、彼らを食いちぎるようにしました。

 

 

 しかし彼らは熱心に神に呼ばわり、助けを求めたので、私の計画は失敗でした。

 

 次の悪霊が来て報告しました。

 

「私はクリスチャンたちが人生の暴風雨に出会うように仕向けました。

 

 船は破船し、暗礁に乗り上げたのですが、彼らは激しく祈り、大声で賛美し続け、

 

私の計画は失敗してしまいました。

 

 すると、3番目の悪霊が来て、笑いながら余裕綽々とした表情で報告しました。

 

あはは。サタン様。

 

 私は約10年ほど、クリスチャンたちに無風状態を作ってあげました。

 

 すべて試練に会わないで平安が長く続くようにしてあげました。

 

 食べたいものは食べさせ、着たい物は着ることができるようにしてあげたのです。

 

 

 すると、10名のうち10名全員が皆、徐々に世的になり、酒を飲み、肉の快楽に

 

溺れ、信仰がなくなり、だんだんと堕落していくのを見ました。

 

 私たちの人生に豊かさや平安ばかりが続くと、結局は神様から離れる危険性が

 

あるのです。

 

 ですから、私たちには主の訓練が必要なのです。

 

 

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方

 

のことを考えなさい。

 

 

 あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
 

 4 あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。
 

 5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、

 

この励ましのことばを忘れています。

 

わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。

 

 主に叱られて気落ちしてはならない。
 

 6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる

 

のだから。』

 


 

 7 訓練として耐え忍びなさい。

 

 神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

 

 父が訓練しない子がいるでしょうか。
 

 8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、

 

私生児であって、本当の子ではありません。


 9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちは

 

その父たちを尊敬していました。

 

 それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきでは

 

ないでしょうか。
 

 10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを

 

訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さに

 

あずからせようとして訓練されるのです。
 

 11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく

 

思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という

 

平安の実を結ばせます。」(へブル12:3~11)

 

Intricate Golden Crown with Gems and Coins in Illuminated Setting | Deep  Dream Generator

 

試練に耐える人は幸いです。

 

 耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を

 

受けるからです。」(ヤコブ1:12)

 

 

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衛生的環境以上に大切なもの

 

 しばらく前から特に除菌ということが叫ばれて来ました。

 

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除菌シート、除菌スプレー、除菌ウェットティッシュ・・・。

 

 もちろんこれらは大切なものでしょう。

 

 けれども、赤ちゃんにとって衛生的環境よりも、ずっと大切なものがあるのです!

 

 皆さん、第2次大戦中、イギリスにおいてスピッツ博士が実験した研究を

 

ご存知でしょうか?

 

 当時、戦争中ということもあり、多くの孤児たちが生まれましたが、

 

その孤児たちに対する研究でした。

 

ベッドのある病室と、ライトが照らされる病院のベッド。 | プレミアム写真

 

 一方の施設は設備が整っていて、光がよく差し込む部屋で、ベッドには清潔な

 

シーツが敷かれ、しかも毎日、そのシーツは取り替えられていました。

 

 保健衛生上は非の打ち所の無い設備でした。

 

 しかも看護師はマスクをし、できるだけ赤ちゃんに触らないようにして、

 

赤ちゃんのお世話をしました。

 

 他方の施設は衛生的といえないような施設で、その大きな囲いの中に、大勢の

 

乳児たちが入れられていました。

 

Nurse for Newborns at Home in Dubai & Abu Dhabi | Neonatal Nurse

 

 赤ん坊たちは互いに触れ合ったり、ボランティアの保育士たちに

 

まとわりついていました。

 

 この2つの施設を比較研究した結果、衛生的な施設の多くの赤ん坊がマラスムスと

 

呼ばれる脊髄萎縮症で死んでしまったのです。

 

 しかし、衛生的でなくてもスキンシップのあった赤ちゃんの死亡率は、

 

一般の死亡率を下回っていたのです。

 

 このことからスピッツ博士は、人間の成長にとって愛は不可欠であると

 

結論付けたのです。

 

 愛情を受けるか否かは、赤ちゃんにおいて死ぬか生きるかという問題ですが、

 

もう少し大きくなると、死にまでは至らなくても、人格形成において

 

大きなマイナスをもたらします。

 

 その代表的なものが情緒不安定というものです。

 

 ですから、愛そのものであられる神様との関係、イエス様との関係こそが

 

この問題を完全に解決できるのです!

 

 

わたしの恵みはあなたに十分である。

 

 というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(第二コリント12:9)

 

 

わたしは生きている──【神】である主のことば──。

 

 わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。

 

 悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。

 

 立ち返れ。

 

 悪の道から立ち返れ。

 

 イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33:11)

 

 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。

 

 わたしはあなたを愛している。

 

 だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの

 

代わりにする。」(イザヤ43:4)

 

 

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イエス様 VS パウロ?

 

 イエス様の時代、旧約聖書の律法の専門家がやって来て、イエス様を試そうとして

 

質問しました。

 

Matthew 22:34–40

 

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 

 

 37 そこで、イエスは彼に言われた。

 

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 

 38 これがたいせつな第一の戒めです。

 

  39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、

 

それと同じようにたいせつです。 

 

 40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:36~40)

 

つまり、イエス様は旧約聖書の戒めの中心は、神様への愛と隣人への愛と

 

言われたのです。

 

 

 一方、パウロはその片方だけでよいと言っています。

 

 「律法全体は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という

 

一つのことばで全うされるのです。」(ガラテヤ5:14)

 

 なぜでしょうか?

 

 ヨハネはこう言っています。

 

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。

 

 目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは

 

できません」(第一ヨハネ4:20)。

 

 皆さん、お分かりになるでしょうか?

 

 パウロが「隣人を愛せよ」という1つの戒めだけでよいと語った理由は、

 

隣人を愛しているかどうかが、神を愛しているかどうかの

 

バロメーター(判断基準)である」からなのです。

 

 

 ですから、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めは

 

「神を愛せよ」をも含む格別に大切な戒めなのです。

 

 ですから、イエス様 VS パウロではなく、イエス様とパウロは

 

一致しているのです!

 

 

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イエス様の遺言?

 

 イエス様の遺言をご存じでしょうか?

 

 「聖書には遺言など無いではないですか?」と仰るでしょうか?

 

 イエス様は十字架につけられた後、3日目に死から復活されました。

 

 その後、弟子たちに何度もご自身を現されました。

 

 そして、天に上げられる直前に弟子たちに語られたみことばがありました。

 

 それがマルコ16:15でした。

 

Mark 16:15

 

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

 

 これはまさに遺言と言えるのではないでしょうか?

 

 ところで、以前、私は神学生時代、青森県の田舎に伝道に行きました。

 

 一軒一軒、トラクトを配りました。

 

 ある家は玄関を入ると、目の前に大きな仏壇がどーん構えていて、びっくり

 

しましたが、そんな家が何軒もありました。

 

 またお婆ちゃんが出てきて、いくら説明しても「はあ、はあ?」と言われる

 

だけでした。

 

 あるとき、少し山間の地域に行きました。

 

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 掘っ立て小屋のような家がありました。

 

 そして、そこで60代くらいの方にトラクトを渡し、「教会に来てください」と

 

お願いすると、「こんな足でどこにいけるって言うんだ!」と睨まれました。

 

 この方は片足がなく、不自由な生活をしていたのです。

 

 そのとき、私は一つのことを悟りました。

 

「そうか!教会に来てください!と言うだけではだめなんだ!

 

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 足が不自由だったり、病気で伏せっている人は来れないんだ!」

 

ということでした。

 

 皆さんはイエス様のことを伝えておられますか?

 

 福音の力を体験されています^^?

 

 主は今日も「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を

 

宣べ伝えなさい。」と仰っておられます!

 

 

 

聖書はこう言っています。

 

『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』


 12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。

 

 同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に

 

豊かに恵みをお与えになるからです。

 


 13 『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。


 14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

 

 聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

 

 宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

 


 

 15 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。

 

『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いて

 

あるようにです。」(ローマ10:11~15)

 

 

 今日もそれぞれの現場に宣教の心をもって出て行こうではありませんか!

 

 イエス様はご自身が十字架にかかり、この地上を去ることはあなたがたに

 

とってプラスであると言われました(ヨハネ16:7)。

 

 なぜなら、代わりに助け主の聖霊様が私たちのもとに来られるからです!

 

 ですから、聖霊に満たされることが大切です^^

 

 

 イエス様は今日も私たちに仰います!

 

全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を

 

宣べ伝えなさい。」と。

 

 

 

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礼拝メッセージで用いたMOST(The Bridge)の動画です。

 

John 3:16 - The Story of Love、あるいはMOST(The Bridge)で検索して

いただけると、視聴できます^^

 

 
 

 

 

 

 

 

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 「イエス・キリストとはどういうお方か?」

             マルコ1:9~11

序)

 ところで、皆さんは、もし「イエス・キリストとはどういうお方でしょうか?」と尋ねられたら、どのようにお答えになりますか?多くの方々は一人の立派な道徳家で、ブッダやイスラムのマホメットや中国の儒教の開祖である孔子のように偉大な聖人の1人と言われるかもしれません。けれども、イエス様は神の子、メサイア、神様がこの人類のために送ってくださった救い主なのです。今日はもう少し具体的な面をみことばから教えられたいと思います。それで、今日のタイトルを「イエス・キリストとはどういうお方か?」と致しました。

 

1.  私たちと同じ罪人のようになられたお方

 9節「そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」と記されています。皆さん!ここをお読みになって、「イエス様がバプテスマを受ける?なぜ?」とは思われませんか?ところで、当時、「荒野で叫ぶ者の声」として現れたバプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていましたが、何とその数はユダヤ地方の全域とエルサレムの住民すべてというのです。これは物凄い社会現象です。数万人でしょうか?数十万人でしょうか?荒野にやって来たのです。

 

 しかし、7~8節を見ると、バプテスマのヨハネは「イエス様のしもべになる資格すらありません」と言っています。ですから、イエス様はさっそうと現れて、ヨハネの傍らに来られて、バプテスマのヨハネに洗礼を授けたらよかったのではないでしょうか?そのようにしたら、ご自分の偉大さをお示しになれたのではないでしょうか?けれども、イエス様はそうされませんでした。それどころかイエス様は、本当に辺鄙な田舎である、ガリラヤのナザレからやって来られ、多くの人々の中の、その他大勢の中の一人として、来られたのでした。

 

 バプテスマのヨハネが荒野に現れた目的は何だったでしょうか?ヨハネは罪人に罪を告白させ、悔い改めさせるバプテスマを授けていたのです。彼は宗教家たちを「偽善者、まむしの子ら」と厳しく叱責しています。ですから、罪の1つもない神の子、救い主であるイエス様はバプテスマを授ける側です。そして、バプテスマのヨハネも「私こそバプテスマを受けるべきです」とイエス様の願いを止めようとしたのです。しかし、イエス様は罪人が受ける悔い改めのバプテスマを受けられたのです。罪の1つもないイエス様が罪人の立場にご自分を置かれたのです!すると、天が裂けました。そして聖霊が下ってきたのです。さらに、天から父なる神様が「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と告げられたのでした。イエス様が悔い改めのバプテスマを受けられたということは三位一体なる神様、つまり、天のお父様も、神の霊であられる聖霊様も、このイエス様の姿を御心として喜ばれたという意味です。

 

 ハワイにモロカイ島という島があります。ここはハンセン氏病の人々が連れてこられた島でした。そこは粗末な掘立小屋があるだけで、医者はおろか薬もなく、ベッドもないところでした。まさに病人たちが死を待つだけの何の希望もない場所だったのです。人が亡くなっても葬儀もなく、死体は穴に投げ込まれるだけでした。そこにベルギーから1人の青年がやって来ました。ダミアンという神父です。彼はその悲惨な現状を見て、心を痛め、自分をこの地に捧げる決心をしました。そして町の若者たちを用いて、水道管を引き、家を300軒建て、人間らしい生活ができるようにしてあげました。また、重病人の家も訪問し、慰めと励ましを与えました。そしてついに彼もハンセン氏病になったのです。その時ダミアン神父は言いました。「これで患者たちの痛み、苦しみにもっと近づくことができる!」と。この16年後、ハンセン氏病を患ったダミアン神父は天に召されたのです。

 

 イエス様は天地万物を創造された絶対者、人を生かすことも殺すこともできるお方です。その神ご自身が人となってきてくださっただけでも、これ以上、ありがたいことはありません。それなのに、1つも罪がなく、聖なるお方であるイエス様が罪人として、罪人の受けるバプテスマを受けてくださったのです。何とありがたいことでしょうか!いいえ。そればかりか、それはイエス様の公生涯のスタートに過ぎませんでした。イエス様はいつも人々から忌み嫌われていた取税人、遊女、罪人たちと食事をしました。ですから、宗教家たちは「大酒飲みのくいしんぼ」とあざけりました。けれども、イエス様はそのようなあざけりをものともせず、彼らに仕え続け、最後は私たち罪人の罪をすべて背負って、あの十字架で死なれました。その姿はほふり場に行く、つまり屠殺場に連れていかれる子羊のようだったのです。へブル12:2には「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、」と記されているのです。私たちが地獄の永遠の苦しみを受けないように、イエス様は罪そのものとなってくださいました。第二コリント5:21「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」。ハレルヤ!皆さん!この意味が分かりますか?私たちこそ罪人です。イエス様は神の義そのものです、それなのに、イエス様が罪そのものとなられたのです!そして私たちが神の義となったのです!ありえないことですね!これが、神様が私たちにされたことなのです!

 

2,     私たちが天の父と親しく交われるようにしてくださったお方

 10節「イエスは、水の中から上がられるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自身に降って来るのをご覧になった。」。天を裂かれたお方ということは、実は今申し上げたこと、つまり、私たちと同じ罪人のようになられたことによって、引き起こされたことです。では、「天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に下って来た」とはどんな意味でしょうか?イザヤ64:1「ああ、あなたが天を裂いて降りてこられると・・・」と記されています。預言者イザヤの苦しみ、それはイスラエルの民が偽りの神々を拝み、偶像礼拝をしている霊的な暗闇の中にいることでした。神様の子どもであるべき民が、親である神がどのようなお方なのかわからず、さ迷っていることを「ああ」と嘆いているのです。そして、「神様が天を裂いて降りてこられる」ならば、すべての問題が解決すると信じ、祈っているのです。このように「天が裂けた」ということはイエス様が30歳になり、公の生涯、公生涯が始まったということを意味しているのです。

 

 では、天が裂かれ、公生涯が始まった目的は何でしょうか?それは十字架にかかられるためでした。イエス様が罪そのものとなられ、私たちが神の義になるためだったのです。そして、イエス様は私たちが本来受けるべき十字架の罰を身代わりに受けてくださったのでした。それが公生涯の目的です。このように天が裂かれ、イエス様の公生涯が始まり、十字架にかかられた結果、いったい何が起こったのでしょうか?15:37~38を読んでみましょう。「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記されています。これはどのような意味でしょうか?

 

 神殿というものは大庭があり、聖所があり、その先に至聖所があります。大庭は異邦人が礼拝する場所です。そして聖所は祭司たちが礼拝する場所です。その先に至聖所があります。これは別名、会見の天幕と言って、年に一度だけ大祭司だけが入ることを許されている場所です。まさに神様が会ってくださる聖なる場所です。ここに大祭司が入るときは十分祈り備え、自分に罪がないかどうかを入念にチェックし、足には紐、ロープをつけて、そのロープに鈴をつけて入ります。皆さん!なぜ足にロープをつけるか分かるでしょうか?それはもし大祭司に罪が見つかれば、その場で神様に打たれて即死してしまうからです。その場合、ほかの人が入ることができないので、鈴の音がしなくなったら、ロープを引っ張り、死体を引き出すためだったのです。皆さん!聖書を見ると、神様は太陽よりも何千倍、何万倍も光り輝くお方です。そのお方の前に出るならば、罪人である私たちは一瞬にして死んでしまうのです。

 

 しかし、神殿の聖所と至聖所の間の天幕が上から下まで真二つに裂けたということは、大祭司が年に1度しか入れなかった至聖所、神との会見の天幕には入れるということなのです。ですから、新約時代のクリスチャンの特権は驚くべきものです。旧約の大祭司でさえ1年に1度しか入れなかった至聖所に、いつでも、どこでも入れるのです。そして、イエス様を自分の罪からの救い主であると信じた者はだれでも、子供でも、老人でも、病の中にある方でも、刑務所にいる囚人でも、だれでも至聖所に入り、天の父なり神様と交わることができるのです!ハレルヤ!皆さん!これが公生涯を始め、十字架で私たちの罪を身代わりに背負ってくださったイエス様のしてくださったことなのです。ハレルヤ!

 

3,     天の父から最も愛されたがゆえに、使命を託されたお方

 11節「すると、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」。旧約聖書の中で、本当に父から愛された人がいました。アブラハムの子、イサクです。イサクはアブラハムが100歳になって、90歳のサラとの間に与えられた子です。イサクの誕生は子供ができる能力を失ったアブラハムとサラにとって、神の奇跡でした。ですから、その息子の名をイサク=彼は笑う、という名前を付けたのでした。アブラハムにとって目の中に入れてもいたくないほど愛している息子イサクです。しかし、創世記22章で神様はおっしゃいます。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子を連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、彼を全焼のいけにえとしてささげなさい!」と。これがどれほど衝撃的なことでしょうか?父が子を全焼のいけにえとして捧げる!それは許されざることです!絶対あってはいけないことです。

 

 しかし、神はアブラハムにそうするように命じられるのです。それからアブラハムはひどく苦しんだことでしょう。そして、まさにアブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげるために、縄で縛り、剣を振り下ろすその時、神の使いが言うのです。「アブラハム、アブラハム。その子に手を下してはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。・・・たしかにわたしはあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。」。

 

 アブラハムは神の友と言われるほど、天のお父様から愛された人物です。「ほかの者には言わないが、アブラハムにはご自身の考えていることを伝えよう」と特別に愛された人物です。その人物に対して、天のお父様の命令は全くありえない試練でした!これはもちろんアブラハムの子、イサクにとっても考えられない試練であったことでしょう。しかし、神は愛する者にはこのような試練を許されるのです。なぜでしょうか?実は、神様の目的はこのアブラハムをイスラエル民族の信仰の父、ルーツ、土台とするためだったのです。つまり、アブラハムから息子イサク、そしてヤコブ=イスラエルというイスラエル民族が誕生したからです。ですから、神様の目的はアブラハムを揺るぐことのない信仰の父とすることでした。

 

 それだけでしょうか?いいえ。天のお父様がひとり子イエス様を十字架につけなければならない苦しみを誰かに共有してもらいたかったのです。その時、神様は最も信頼し、愛していたアブラハムにご自身の苦しみの体験を共有させたのでした。

 

 皆さん!天のお父様は一番愛していた御子イエス様を私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださったのです。その苦しみはどれほどであったでしょうか?

 

 2003 年に、チェコのプラハで作られた「Most」(橋)という映画があります。1937年にアメリカで実際、おこった事故をもとにして映画化された実話です。独り身のお父さんとそのたったひとりの息子がいました。お父さんは上下に動く可動式の橋の管理人として働いていました。そして息子のことを心の底から愛していました。また、息子もその父親のことが大好きでした。ある日、仕事場に来ていた息子に「ここから離れてはだめだよ」と、息子を湖に残して、父親は仕事に戻りました。この時、船が通れるように橋は上がったままでした。しばらくして、息子は汽車が線路の向こうからやってくるのを見ました。本来、1時間後にくるはずの汽車でした。けれども、父親の位置からはその汽車を見ることができなかったので、彼は気付かなかったのです。しかし、列車に気づいた息子は、橋を下すためレバーを引こうとしたのですが、あやまって橋の下に落ちてしまいました。その瞬間を見た父親は、迫りくる列車を前に2つのうち1つの選択を迫られました、、、。今レバーを引けば息子が橋の下敷きになる・・・。引かなければ、息子は助かるが400名の乗客の命が失われることになる・・・。彼は悩み苦しみ、涙を流しながら、レバーを下したのです!

 

 多くの人々の命を救うため、一人の最愛の息子を犠牲にしなければならなかった父親。これは2000年前、天の父が大切なご自身のひとり子、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして、十字架につけてくださったことをよく表しています。罪を持ったまま「永遠の滅び」という列車に乗っていた私たちのために、神は究極の方法をとられました。それは、ひとり子であるイエス・キリストを人として世に遣わし、その犠牲の死を通して私たちを救う計画でした。まったくバカな話ではないでしょうか?全能なる神様、全世界を創造された神様です。高いところに、座しておられればいいではないですか?罪を犯したのは人間です。裁かれて当然ではないでしょうか?罪のない、大切な御子イエス様を身代わりに十字架刑にかけることは気が狂っているとしか言えません。しかし、神様はそのことをしてくださったのです。神のひとり子イエス様は大切な、大切な、最も愛する存在であるがゆえに、この恐ろしい刑罰を担わせたのです。皆さん、これが神様の愛なのです。

 

 今日は「イエス・キリストとはどんなお方か?」について、3つのことを学びました。

1,私たちと同じ罪人のようになられたお方

2,私たちが天の父と親しく交われるようにしてくださったお方

3,天の父から最も愛されたがゆえに、使命を託されたお方

お祈りしましょう!

 

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マルティン・ルターにとってのバプテスマ

 

 1517年、ローマ=カトリック教会を批判したルターに始まるキリスト教の

 

改革運動を宗教改革と言います。

 

 

 このようにプロテスタントというキリスト教の流れをつくった偉大な人物、

 

それがマルチン・ルターでした。

 

 しかし、彼には悩みがありました。

 

 ルターの父はもともと農村出身者から銅鉱業身によって身を起こしました。

 

 そのため上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求して

 

いたのです。

 

 教育において時に厳格を極めた父親の影響によって、神に対するイメージが

 

冷酷で厳格なイメージとなってしまったのでした!

 

 

 それでルターは生涯、自分自身を受け入れる必要のあるときになると、

 

とても苦しみました。

 

自分は神に愛されているのだろうか?

 

 特に、もんもんとした死の苦しみをなめていたとき、彼は何とかしてそこを

 

抜け出そうとして自分の机いっぱいに大きな文字を書きました。

 

私はバプテスマ(洗礼)を受けているんだぞ~」と。

 

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 悪魔は私たちの様々な弱い部分を攻撃してきます。

 

 ルターにとって、それは”神に愛されているのだろうか?”という思い煩い

 

でした。

 

Declare It – Psalm 118:17 | Mount Zion Church

 

 けれども、彼は口からあることばを宣言することによって、その思い煩いを

 

捨て去ることが出来たのです!

 

 「私はバプテスマ(洗礼)を受けているんだぞ~

 

 バプテスマとは何でしょうか?

 

 バプテスマとは、この私が神様の愛を受けるために何もしていないにも

 

かかわらず、神が私たちを無条件で受け入れてくださっている愛のしるし

 

なのです。

 

 

 私たちが愛を見失った時、罪人の私たちを神が無条件で受け入れて

 

くださったことを思い出しましょう!

 

 その贖いのしるしこそバプテスマなのです!

 

 

恐れるな。

 

 わたしがあなたを贖ったからだ。

 

 わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。
 

 2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。

 

 川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは

 

焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
 

 3 わたしはあなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの

 

救い主であるからだ。

 

 わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。

 


 

 4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。

 

 わたしはあなたを愛している。

 

 だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの

 

代わりにする。」(イザヤ43:4)

 

 

 

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。

 

 すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って

 

来られるのをご覧になった。

 

Father God - Matthew 3:13-17 13 Then Jesus came from Galilee to John at the  Jordan to be baptized by him. 14 And John tried to prevent Him, saying, "I  need to
 

 17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。

 

『これはわたしの愛する子。

 

 わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイ3:16~17)

 

 

私はバプテスマ(洗礼)を受けているんだぞ~

 

 

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ヒューマニズム か 福音 か?

 

 ヒューマニズムとは人間性の価値を称賛し、さまざまな束縛や抑圧による

 

非人間的状態から人間の解放を目ざす思想です。

 

 これは本当に素晴らしい思想ではないでしょうか!

 

 ですから、多くの人々はヒューマニズムや人道主義を大切に思います。

 

チャールズ・ダーウィン - Wikipedia

 

 ところで、19世紀、活躍した自然科学者であり、進化論の提唱者である

 

ダーウィンは一つの実験を思いつきました。

 

 それは自分の家を開放し、毎日酔いつぶれている人を治してあげようとする

 

実験でした。

 

 なぜなら酔っ払いの家は家庭が滅茶苦茶になっていたからです。

 

 しかし、その結果はまったく実を結びませんでした。

 

 ところが、幼稚園を経営するペガンという人が町に引っ越してきました。

 

 彼は町の酔っ払いを訪ね、福音を伝えていきました。

 

 すると、しばらくしないうちに彼らに変化が起こりました。

 

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 日曜日には教会に出席するようになり、きちんとした格好になり、ついには

 

お酒をやめてしまったのです。

 

 一年後、ダーウィンはペガンに手紙を書きました

 

私たちの努力ではできなかったことをあなたは数ヶ月で成し遂げました。

 

 決して私たちの力では酔っ払いを更生できませんでしたが、あなたによって、

 

みなクリスチャンになりました。

 

 これによって、キリストは人間を救うことができることが証明されました。」。

 

ブレーズ・パスカル - Wikipedia

 

 哲学者パスカルは言いました。

 

人間の心の中には神様でしか満たすことのできない心の空洞があるのだ」。

 

 多くの人はお酒で心を満たそうとします。

 

 異性で満たそうとします。

 

 スポーツで満たそうとします。

 

 娯楽や旅行で満たそうとします。

 

 しかし、私たちの心の空洞は神様でしか満たせないのです!

 

 ですから、神様を中心にしなければ、本当の幸せを得ることは出来ないのです。

 

レフ・トルストイ - Wikipedia

 

 「戦争と平和」「アンナ・カレニーナ」を書いたロシアの文豪トルストイ

 

言っています。

 

私はイエス様を離れてからは、生活が恐怖と嫌悪と悩みに苦しみました。

 

 私は戦場でたくさんの人を殺しました。

 

 博打で人々をだましました。

 

 不倫、詐欺、窃盗、暴力、殺人までしました。

 

 犯さない犯罪はないくらいです」。

 

 このような深い暗闇の中で、自分の兄が亡くなりました。

 

 また多くの死刑囚が死んでいくのを見ました。

 

 そのとき、トルストイは「人間とは何か」を考え始めたのです。

 

 哲学や科学では解決できませんでした。

 

 彼はイエス様の十字架の下に飛び込みました

 

 そして彼は「人間は神様なしには生きられないのだ!」と懺悔録に記したのです。

 

 皆さん、「武器よ、さらば」「誰がために鐘は鳴る」、「老人と海」等の

 

アーネスト・ヘミングウェイ - Wikipedia

 

人道主義的な作品を残したヘミングウェーはノーベル賞も受賞し、

 

富と名声を得ました。

 

 美しい女性を求め、4回も結婚と離婚とを繰り返しました。

 

 しかし、彼は61歳のとき、ライフル銃で自殺してしまいました。

 

 彼の最後の日記にはこう書いてあります。

 

私は電池が切れて、コードを差し込みたくても差込口がなくて電源の入らない

 

ラジオの真空管のようにむなしい」。

 

 いくらヒューマニズムが理想的な思想であったとしても、人間の中には自分では

 

解決できない罪の問題があるのです。

 

 このすべての罪から解放され、キリストのように変えられていく道、それが

 

イエス・キリストを信じる信仰=福音なのです!

 

 

 

まことに、彼(キリスト)は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。

 

 それなのに、私たちは思った。

 

 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 

 5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。

 

 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、

 

私たちは癒やされた。
 

 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。

 

しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4~6)

 

 

この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。

 

 天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に

 

与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

 

主イエスを信じなさい。

 

 そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

 

 

 

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