「イエス・キリストとはどういうお方か?」
マルコ1:9~11
序)
ところで、皆さんは、もし「イエス・キリストとはどういうお方でしょうか?」と尋ねられたら、どのようにお答えになりますか?多くの方々は一人の立派な道徳家で、ブッダやイスラムのマホメットや中国の儒教の開祖である孔子のように偉大な聖人の1人と言われるかもしれません。けれども、イエス様は神の子、メサイア、神様がこの人類のために送ってくださった救い主なのです。今日はもう少し具体的な面をみことばから教えられたいと思います。それで、今日のタイトルを「イエス・キリストとはどういうお方か?」と致しました。
1. 私たちと同じ罪人のようになられたお方
9節「そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた」と記されています。皆さん!ここをお読みになって、「イエス様がバプテスマを受ける?なぜ?」とは思われませんか?ところで、当時、「荒野で叫ぶ者の声」として現れたバプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていましたが、何とその数はユダヤ地方の全域とエルサレムの住民すべてというのです。これは物凄い社会現象です。数万人でしょうか?数十万人でしょうか?荒野にやって来たのです。
しかし、7~8節を見ると、バプテスマのヨハネは「イエス様のしもべになる資格すらありません」と言っています。ですから、イエス様はさっそうと現れて、ヨハネの傍らに来られて、バプテスマのヨハネに洗礼を授けたらよかったのではないでしょうか?そのようにしたら、ご自分の偉大さをお示しになれたのではないでしょうか?けれども、イエス様はそうされませんでした。それどころかイエス様は、本当に辺鄙な田舎である、ガリラヤのナザレからやって来られ、多くの人々の中の、その他大勢の中の一人として、来られたのでした。
バプテスマのヨハネが荒野に現れた目的は何だったでしょうか?ヨハネは罪人に罪を告白させ、悔い改めさせるバプテスマを授けていたのです。彼は宗教家たちを「偽善者、まむしの子ら」と厳しく叱責しています。ですから、罪の1つもない神の子、救い主であるイエス様はバプテスマを授ける側です。そして、バプテスマのヨハネも「私こそバプテスマを受けるべきです」とイエス様の願いを止めようとしたのです。しかし、イエス様は罪人が受ける悔い改めのバプテスマを受けられたのです。罪の1つもないイエス様が罪人の立場にご自分を置かれたのです!すると、天が裂けました。そして聖霊が下ってきたのです。さらに、天から父なる神様が「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と告げられたのでした。イエス様が悔い改めのバプテスマを受けられたということは三位一体なる神様、つまり、天のお父様も、神の霊であられる聖霊様も、このイエス様の姿を御心として喜ばれたという意味です。
ハワイにモロカイ島という島があります。ここはハンセン氏病の人々が連れてこられた島でした。そこは粗末な掘立小屋があるだけで、医者はおろか薬もなく、ベッドもないところでした。まさに病人たちが死を待つだけの何の希望もない場所だったのです。人が亡くなっても葬儀もなく、死体は穴に投げ込まれるだけでした。そこにベルギーから1人の青年がやって来ました。ダミアンという神父です。彼はその悲惨な現状を見て、心を痛め、自分をこの地に捧げる決心をしました。そして町の若者たちを用いて、水道管を引き、家を300軒建て、人間らしい生活ができるようにしてあげました。また、重病人の家も訪問し、慰めと励ましを与えました。そしてついに彼もハンセン氏病になったのです。その時ダミアン神父は言いました。「これで患者たちの痛み、苦しみにもっと近づくことができる!」と。この16年後、ハンセン氏病を患ったダミアン神父は天に召されたのです。
イエス様は天地万物を創造された絶対者、人を生かすことも殺すこともできるお方です。その神ご自身が人となってきてくださっただけでも、これ以上、ありがたいことはありません。それなのに、1つも罪がなく、聖なるお方であるイエス様が罪人として、罪人の受けるバプテスマを受けてくださったのです。何とありがたいことでしょうか!いいえ。そればかりか、それはイエス様の公生涯のスタートに過ぎませんでした。イエス様はいつも人々から忌み嫌われていた取税人、遊女、罪人たちと食事をしました。ですから、宗教家たちは「大酒飲みのくいしんぼ」とあざけりました。けれども、イエス様はそのようなあざけりをものともせず、彼らに仕え続け、最後は私たち罪人の罪をすべて背負って、あの十字架で死なれました。その姿はほふり場に行く、つまり屠殺場に連れていかれる子羊のようだったのです。へブル12:2には「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、」と記されているのです。私たちが地獄の永遠の苦しみを受けないように、イエス様は罪そのものとなってくださいました。第二コリント5:21「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」。ハレルヤ!皆さん!この意味が分かりますか?私たちこそ罪人です。イエス様は神の義そのものです、それなのに、イエス様が罪そのものとなられたのです!そして私たちが神の義となったのです!ありえないことですね!これが、神様が私たちにされたことなのです!
2, 私たちが天の父と親しく交われるようにしてくださったお方
10節「イエスは、水の中から上がられるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自身に降って来るのをご覧になった。」。天を裂かれたお方ということは、実は今申し上げたこと、つまり、私たちと同じ罪人のようになられたことによって、引き起こされたことです。では、「天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に下って来た」とはどんな意味でしょうか?イザヤ64:1「ああ、あなたが天を裂いて降りてこられると・・・」と記されています。預言者イザヤの苦しみ、それはイスラエルの民が偽りの神々を拝み、偶像礼拝をしている霊的な暗闇の中にいることでした。神様の子どもであるべき民が、親である神がどのようなお方なのかわからず、さ迷っていることを「ああ」と嘆いているのです。そして、「神様が天を裂いて降りてこられる」ならば、すべての問題が解決すると信じ、祈っているのです。このように「天が裂けた」ということはイエス様が30歳になり、公の生涯、公生涯が始まったということを意味しているのです。
では、天が裂かれ、公生涯が始まった目的は何でしょうか?それは十字架にかかられるためでした。イエス様が罪そのものとなられ、私たちが神の義になるためだったのです。そして、イエス様は私たちが本来受けるべき十字架の罰を身代わりに受けてくださったのでした。それが公生涯の目的です。このように天が裂かれ、イエス様の公生涯が始まり、十字架にかかられた結果、いったい何が起こったのでしょうか?15:37~38を読んでみましょう。「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記されています。これはどのような意味でしょうか?
神殿というものは大庭があり、聖所があり、その先に至聖所があります。大庭は異邦人が礼拝する場所です。そして聖所は祭司たちが礼拝する場所です。その先に至聖所があります。これは別名、会見の天幕と言って、年に一度だけ大祭司だけが入ることを許されている場所です。まさに神様が会ってくださる聖なる場所です。ここに大祭司が入るときは十分祈り備え、自分に罪がないかどうかを入念にチェックし、足には紐、ロープをつけて、そのロープに鈴をつけて入ります。皆さん!なぜ足にロープをつけるか分かるでしょうか?それはもし大祭司に罪が見つかれば、その場で神様に打たれて即死してしまうからです。その場合、ほかの人が入ることができないので、鈴の音がしなくなったら、ロープを引っ張り、死体を引き出すためだったのです。皆さん!聖書を見ると、神様は太陽よりも何千倍、何万倍も光り輝くお方です。そのお方の前に出るならば、罪人である私たちは一瞬にして死んでしまうのです。
しかし、神殿の聖所と至聖所の間の天幕が上から下まで真二つに裂けたということは、大祭司が年に1度しか入れなかった至聖所、神との会見の天幕には入れるということなのです。ですから、新約時代のクリスチャンの特権は驚くべきものです。旧約の大祭司でさえ1年に1度しか入れなかった至聖所に、いつでも、どこでも入れるのです。そして、イエス様を自分の罪からの救い主であると信じた者はだれでも、子供でも、老人でも、病の中にある方でも、刑務所にいる囚人でも、だれでも至聖所に入り、天の父なり神様と交わることができるのです!ハレルヤ!皆さん!これが公生涯を始め、十字架で私たちの罪を身代わりに背負ってくださったイエス様のしてくださったことなのです。ハレルヤ!
3, 天の父から最も愛されたがゆえに、使命を託されたお方
11節「すると、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」。旧約聖書の中で、本当に父から愛された人がいました。アブラハムの子、イサクです。イサクはアブラハムが100歳になって、90歳のサラとの間に与えられた子です。イサクの誕生は子供ができる能力を失ったアブラハムとサラにとって、神の奇跡でした。ですから、その息子の名をイサク=彼は笑う、という名前を付けたのでした。アブラハムにとって目の中に入れてもいたくないほど愛している息子イサクです。しかし、創世記22章で神様はおっしゃいます。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子を連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、彼を全焼のいけにえとしてささげなさい!」と。これがどれほど衝撃的なことでしょうか?父が子を全焼のいけにえとして捧げる!それは許されざることです!絶対あってはいけないことです。
しかし、神はアブラハムにそうするように命じられるのです。それからアブラハムはひどく苦しんだことでしょう。そして、まさにアブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげるために、縄で縛り、剣を振り下ろすその時、神の使いが言うのです。「アブラハム、アブラハム。その子に手を下してはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。・・・たしかにわたしはあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。」。
アブラハムは神の友と言われるほど、天のお父様から愛された人物です。「ほかの者には言わないが、アブラハムにはご自身の考えていることを伝えよう」と特別に愛された人物です。その人物に対して、天のお父様の命令は全くありえない試練でした!これはもちろんアブラハムの子、イサクにとっても考えられない試練であったことでしょう。しかし、神は愛する者にはこのような試練を許されるのです。なぜでしょうか?実は、神様の目的はこのアブラハムをイスラエル民族の信仰の父、ルーツ、土台とするためだったのです。つまり、アブラハムから息子イサク、そしてヤコブ=イスラエルというイスラエル民族が誕生したからです。ですから、神様の目的はアブラハムを揺るぐことのない信仰の父とすることでした。
それだけでしょうか?いいえ。天のお父様がひとり子イエス様を十字架につけなければならない苦しみを誰かに共有してもらいたかったのです。その時、神様は最も信頼し、愛していたアブラハムにご自身の苦しみの体験を共有させたのでした。
皆さん!天のお父様は一番愛していた御子イエス様を私たちの罪の身代わりとして十字架につけてくださったのです。その苦しみはどれほどであったでしょうか?
2003 年に、チェコのプラハで作られた「Most」(橋)という映画があります。1937年にアメリカで実際、おこった事故をもとにして映画化された実話です。独り身のお父さんとそのたったひとりの息子がいました。お父さんは上下に動く可動式の橋の管理人として働いていました。そして息子のことを心の底から愛していました。また、息子もその父親のことが大好きでした。ある日、仕事場に来ていた息子に「ここから離れてはだめだよ」と、息子を湖に残して、父親は仕事に戻りました。この時、船が通れるように橋は上がったままでした。しばらくして、息子は汽車が線路の向こうからやってくるのを見ました。本来、1時間後にくるはずの汽車でした。けれども、父親の位置からはその汽車を見ることができなかったので、彼は気付かなかったのです。しかし、列車に気づいた息子は、橋を下すためレバーを引こうとしたのですが、あやまって橋の下に落ちてしまいました。その瞬間を見た父親は、迫りくる列車を前に2つのうち1つの選択を迫られました、、、。今レバーを引けば息子が橋の下敷きになる・・・。引かなければ、息子は助かるが400名の乗客の命が失われることになる・・・。彼は悩み苦しみ、涙を流しながら、レバーを下したのです!
多くの人々の命を救うため、一人の最愛の息子を犠牲にしなければならなかった父親。これは2000年前、天の父が大切なご自身のひとり子、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして、十字架につけてくださったことをよく表しています。罪を持ったまま「永遠の滅び」という列車に乗っていた私たちのために、神は究極の方法をとられました。それは、ひとり子であるイエス・キリストを人として世に遣わし、その犠牲の死を通して私たちを救う計画でした。まったくバカな話ではないでしょうか?全能なる神様、全世界を創造された神様です。高いところに、座しておられればいいではないですか?罪を犯したのは人間です。裁かれて当然ではないでしょうか?罪のない、大切な御子イエス様を身代わりに十字架刑にかけることは気が狂っているとしか言えません。しかし、神様はそのことをしてくださったのです。神のひとり子イエス様は大切な、大切な、最も愛する存在であるがゆえに、この恐ろしい刑罰を担わせたのです。皆さん、これが神様の愛なのです。
今日は「イエス・キリストとはどんなお方か?」について、3つのことを学びました。
1,私たちと同じ罪人のようになられたお方
2,私たちが天の父と親しく交われるようにしてくださったお方
3,天の父から最も愛されたがゆえに、使命を託されたお方
お祈りしましょう!
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