寺尾聰 | PRAINSのブログ

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今ではシブイ老人役が似合う俳優として活躍されてる寺尾聰さんは

戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の

宇野重吉さんの長男だが個人的に宇野さんの存在は知ってはいるが

世代的に宇野さんにはあまり馴染みがない。

 

寺尾聰さんは1965年(昭和40年)に結成された「ザ・サページ」という

カレッジ・フォーク・グループのベーシストとして翌年デビューしたようだが

僕は年齢的な事もありその頃の寺尾聰さんは知らない。

 

僕が寺尾聰さんを認識したのはハッキリ覚えてないのだが

1970年代後半頃の石原プロのテレビ刑事ドラマ

「大都会」シリーズか「西部警察」だったと思う。

しかしその頃は特に気になる人ではなかった。

 

1970年代が終わり1980年代が幕を開けた頃

ブラウン管からこんなCMが流れて来た

 

 

F1ドライバーのニキ・ラウダが起用されたヨコハマタイヤのCM。

この曲が寺尾聰さんだと知るのに時間はかからなかった。

 

 

刑事ドラマで寺尾聰さんを認識した僕だが

その段階で僕は彼がミュージシャンだと言う事は知らなかった。

所が僕が高校を退学になってフラフラしてた1980年(昭和55年)

8月に正式にリリースされた寺尾聰さんのサードシングル

「シャドー・シティー」は琴線に触れた。

 

今聴いても良い曲だと思うし、この曲も当時の言葉で言えばニューミュージック

今で言う所のシティーポップスだと思いますね。

 

 

シャドー・シティーがリリースされた2ヶ月後の1980年10月に

寺尾聰さんはまた僕の琴線に触れる曲をリリースした。

その曲が4枚目のシングル「出航SASURAI」だった。

 

伸びる音と断ち切るような音の繰り返しが特徴的なこの曲の旋律の動きは

寺尾さんの母がお茶を注ぐときの「スーッ、スーッ」という

情景をイメージしてのものらしい。

この曲は僕が若い頃のカラオケのレパートリーでしたね(笑)

 

 

そして満を持して1981年(昭和56年)にリリースされたのが

寺尾聰さん最大のヒット曲になる「ルビーの指環」だった。

 

発売当初はさほど売れていなかったが発売から約1か月程経った後から

徐々に売上を伸ばし同年のオリコンシングルチャートで自身初の1位を獲得した。

本作のヒットにより発売当初はそこまでヒットしていなかった

3rdシングル「シャドー・シティー」4thシングル「出航SASURAI」も

相乗効果でヒットし、ザ・ベストテンでは「ルビーの指環」と

「SHADOW CITY」「出航 SASURAI」の3曲が同年5月21日と

6月11日の2度同時トップ10以内にランクインした。

 

この3曲は同年4月にリリースされた寺尾聰さんのアルバム

「Reflections」に収録されている。

特筆されるのは、これらの3曲を含む全ての曲を

寺尾聰さんご自身が作曲されていると言う事だろう。

 

しかし音楽活動についてのスタンスの相違で石原プロの小林専務と

寺尾さんとの関係が悪化し最終的には石原プロを勘当されている。

石原プロ退所後も石原裕次郎さんとの感情的な溝はなく

双方の共演NGとはなっていなかったらしい。

 

まあ何はともあれ、この時期の寺尾聰さんは

まさに時代の寵児だったと思う。

1980年代の幕開け頃が思い出されますね~。

ジャンジャン!