自分のルーツを辿ってみる 23 ミヤニシ4年目 | PRAINSのブログ

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さて、不定期でお届けしてる自分で自分の過去を振り返り懐かしく思ったり
時には反省したりするシリーズ「自分のルーツを辿ってみる」ですが
気が付けば前回5月23日以来と半年以上経ってた
 
と、いう事でさっそく記事の方を書き進めますが前回までに1982年(昭和57年)ミヤニシに就職した僕は
今思えば環境や人に恵まれ自分の意図せぬ所で人生が変わり始めたという事を書きました
 
その最もたる事柄がミヤニシ入社3年目の1984年(昭和59年)ロンドン ヴィダルサッスーンへの
美容留学であり、帰国後行われたカットコンテストで思いもせぬ優勝を果たした事でした
 
もともと強い憧れや夢を持って美容師になっていない僕はいつまで経っても仕事に身が入らない
しかしそんな思いとは裏腹に半強制的に参加させられたコンテストで僕は優勝してしまった
 
その結果僕は新聞にも取り上げられお客様や他店の美容師から一目置かれるようになる
しかし自分的には優勝は技術的な実力ではなくインパクト勝負が吉と出たという事はわかっていた
 
ミヤニシ内の立場も4年目ともなると先輩や同期より後輩の方が多くなった
 
自分の実力のなさや練習不足を棚に上げて”恥”だけはかきたくないという矛盾と僕は戦っていた 笑!
 
 
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そんな宙ぶらりんの僕をいつも叱咤激励し有無を言わさず
強制的に美容に向かわせてくれたのが先輩の城戸君だった
 
当時の僕からすれば「ありがた迷惑も甚だしい」という思いもあったが(笑)
彼には僕も頭が上がらなかったし今思えば感謝の一言では表せないくらい感謝してるし
宮西先生と共に僕の美容師として・・・いや、人生を大きく変えてくれた大恩人だと公言できますね
 
当時美容専門誌「しんびよう」誌上フォトコンテストってコーナーが始まったんです
で、例の如く城戸君に半強制的に作品作りに取り組まされる僕 笑!
 
確かこの作品は”佳作”か何かになったんじゃなかったかな~
 
ベースはツーブロックのショートレイヤーで、長めに残したバングと
トップのスパイキーな質感の対比を表現した作品だと思いますね
 
 
と、こんな事してる間に秋になり僕にとっては憂鬱なイベントが近づいてきた
そう、前年優勝したコンテストの当年の開催日が刻々と近づいてくる
 
さすがに2年続けてのラッキーは期待できないし
何より僕はディフェンディングチャンピオンとして皆に注目される事は必定
 
ー恥だけはかきたくない・・・
 
その思いは何の実績もなかった前年より更に強かったが自信もまったくなかった 
それでも僕は真剣に練習に取り組むって事もなかったのだが・・・ 笑!
 
 
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正直に今あの1985年のコンテストの事を言うと僕はコンテスト当日まで、いや、
モデルの髪を切り始めてもどんなデザインにするかという事が明確に頭に描けていなかった
 
前回の初出場の時は、あれでも僕は少ない知識、経験、技術なりに
ロンドンで見て来た事をベースにデザインを考え少しは練習してコンテストに挑んだ
 
しかし2回目となる1985年は気負いによるプレッシャーが強く結局スタイルが決まらず
コンテスト当日の出たとこ勝負になってしまった 笑!
 
そしてコンテスト当日
 
僕は前年の優勝者と言う事で選手を代表して選手宣誓を行った
 
いや~ 学生時代に体育会系じゃなく暴走族系だった僕は(笑)選手宣誓なんて縁がないし
この時の選手宣誓が生まれて52歳の今までで最初で最後の選手宣誓でしたね~ 笑!
 
「宣誓!僕達選手一同は日頃の練習の成果を十二分に発揮し・・・」
って言ったんだと思うが日頃練習していない僕は嘘をついたという事だ! 爆!
 
 
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と、いう事でついにコンテストの火蓋が切って落とされました
モデルにはあらかじめ衣装を着せ、メイクまでは済ませています
 
僕の右横には前年3位に終わり悔しい思いをした城戸君が
今年こそはと優勝を狙ってリベンジに燃えている
 
が、僕には周りを見渡す余裕なんてない
 
そりゃそうだ! 始まりの合図があった段階で僕は
 
「う~ん どうしようかのぉ~・・・」
 
って考えてたくらいですからね~ 笑!
 
 
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カットが始まる段階まで僕には明確なヘアデザインがなかった事は確かだったんですが
僕の中には全体的なイメージはあったんですよね
 
そのイメージソースになっていたのが・・・
 
 
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1985年当時、松田聖子さんと共にアイドル界の人気を二分してた中森明菜さん
 
その当時、明菜さんが歌って大ヒットしてた「DESIRE」
着崩した和服に黒髪のボブ・・・
 
さすがに2年続けて和服というのも芸がないと思いましたが
こんなイメージで行きたいって思いだけはあったんですよ
 
で、ここからイメージを落とし込んでアレンジを加えた
和服は中東系の民族衣装にして黒髪のボブベースのスタイルを合わせる
 
しかし技術力を補うために、もう一つ強力な捻りというかインパクトが欲しい
と、いう事であれこれ悩んだ挙句僕はモデルの顔を黒塗りにする事にした 笑!
 
 
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カット前に肩下まであった黒髪のワンレングスをネープ内側の毛をツーブロックで刈込み
頭の鉢から下の毛をノンテンションでブツ切りにしてボブのラインを出す
 
一度は前下がりのボブに切ったがイマイチだと思い
左側サイドをアシンメトリーにして短く切り込んだ
 
ミディアムゾーンはもともとあった長さを残しながら隙間を開けてブツ切りする
まあ現代の言葉で言えば東京のカリスマ美容師、BOYの茂木さんの”ハズシ”ですよね
 
トップはディスコネクトして大胆に切り込みスパイキーな感じにした
 
かくしてスタイルは何とか完成したのだが・・・
 
 
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確かに今回もインパクトのある作品にはなったとは思った
 
しかし今回は前回と違って出来上がりが頭に描けてたデザインではなく
ぶっつけ本番の行き当たりばったりで切ったスタイルだ
 
決して出来上がりに満足した訳でもなかったし自分でも良いのか悪いのかよくわからない 笑!
今思えばデザインイメージは悪くはないが何せ技術力不足だから完成度は超低い
 
技術力不足は平生往生だし結果が悪く出て恥をかけば自業自得だ
悩んだ挙句に決行した顔の黒塗りってのも審査員の先生方にどう評価されるか・・・
 
いや~ 今思い出しても冷や汗が出ますぞ! 笑!
 
 
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出来上がったモデルはこんな感じです、どうでしょう!? 爆!
 
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結論から先に言うと、この時の僕は2次審査に残り5位という結果だった
 
5位という賞は設定されてはいなかったと思うが2次審査の点数が低い順に名前が呼ばれ
僕はベスト3より2人前に名前を呼ばれたから実質5番目という評価だったという事だ
 
賞の名前は忘れたが「敢闘賞」だったか「中国新聞社賞」だったか、とにかく賞に入り僕は安堵した 
まあ100人以上出場してるコンテストでぶっつけ本番での5位だから上々ですよ
 
こうしてディフェンディングチャンピオンの僕は表面上は最低限の面目を保つ事が出来たのである 笑!
 
 
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これが1985年のミヤニシ勢の作品となったモデルたちだ
 
前列左から3番目のブルーに染めたモデルが城戸君のその時の作品だが
この作品が今回のカットコンテストの最優秀賞に輝いた
 
前年3位に終わり悔しい思いをしたであろう城戸君はきっちりリベンジを果たしたのである
 
城戸君はコンテストに向けて何台も練習用のウイッグを染めてカットして研究しながら練習してた
こうしてきっちり優勝を狙って優勝するんだから本当に凄いと思いましたね
 
これは僕の勝手な想像なんですが、前年3位に終わった城戸君は彼なりに反省し考えたんだと思う
この当時はまだカットコンテストの草創期だったからコンテスト自体のコンセプトもハッキリしていなかった
 
前年3位だった城戸君は当時サロンワークにおいて最先端だったショートレイヤーの
フォワードシェイプを切ったのだが完成度は高かったがインパクトに乏しかった
で、完全に城戸君より技術力の劣る僕がインパクト勝負で評価された
 
やはりコンテストはサロンスタイルじゃなく自由発想のインパクトも評価の対象になる
それを踏まえて彼はブルーに染めた髪をドライカットしてウイッグのような質感を創り上げた
今では当たり前の技術のドライカットも当時はまだ誰もやっていなかった
 
何もかもが手探りの時代だったが、やはり城戸君は発想力も素晴らしかった
確かこの作品はこの後、ヴィダルサッスーン杯にもエントリーして準優勝したんじゃなかったけ・・・
 
 
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この写真はいったいどういう括りの写真なんだろう?
 
最前列はミヤニシの同僚とモデルだけど知らない人も沢山いるぞ
入賞者とモデルなんだろうか? それにしては人数が多すぎるような・・・
 
と、いう事で1985年のコンテストは終わり昭和60年は幕を閉じる
この時”昭和”という時代が残り3年少々だとは誰も思っていなかった
 
年が明けた1986年(昭和61年)、僕にはまた新たな転機が訪れる
 
と、いう事なんですが続きはまた次回と言う事で! ジャンジャン!!