バーナード・バルーク | 初瀬蒼嗣の保守言論

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保守の立場から政治思想を中心に意見を述べていきたいと思っています。

 

バーナード・バルークはウッドロー・ウィルソン大統領の最高経済顧問であり、連邦準備法の後援者である。

 

大恐慌前およびその最中の株式市場投資家で、フランクリン・D・ルーズヴェルトの最高経済顧問でもあった。

 

バルークはスペイン内戦のあいだ、マルクス主義・無政府主義のパルチザン軍であるエイブラハム・リンカーン旅団に多くの資金を提供していた。

 

【コメント】

 

バーナード・バルークに関する資料はあまり収集できていませんが、幾つかの断片的な情報は押さえています。

 

モルデカイ・モーゼの『日本人に謝りたい』の中では、次のような内容が書かれています。

 

「バーナード・バルークについては説明の要もないほど有名であるが、兵器産業界の大立物であり、第一次大戦にアメリカが参戦したのもこのバルークの力が真に大きいのである。当時は、バルークの許可なしには工場一つ建てられなかったといわれる。第二次大戦中は、原爆の製造に尽力した。

彼は「米国のディズレイリ(英国のユダヤ人首相)」と呼ばれており、アメリカのユダヤ人では最大の権力者といえよう。

 

バルークは、第一次大戦中は、1917年、アメリカの参戦後間もなく軍需工業院総裁になり、全産業無制限的統括権を振るうことになった。軍需工場のすべてを掌握していたこのバルークは、A・A・ハウスマン銀行の共同経営者になり、1900年、同銀行と手を切って、ウォール街の株式取引所の有力な地位につき、一方では、自己資金で株式売買や株式市場の不正操縦により暴利を稼いでいた。ウィルソン時代には、真の大統領はこのバルークではないかといわれたものである。

バルークは第一次大戦の煽動に続いて、なんとかアメリカを対独戦へ引きずり込もうと狂奔したのであって、彼の場合、単にドイツのユダヤ人救出だけでなく、戦争による膨大な金権支配力を得ようとしていたのである。「死の商人」とは、彼のためにつくられた言葉かも。

第一次大戦後、上院の一委員会が大戦の前史的事態について調査し、バルークを喚問した際、彼は上院議員J・ハリスの質問に答えて次の如く公言してはばからなかった。

「最後の決定権は自分にあったので──つまり陸軍と海軍とが所要の軍需品を供給されるか否かは自分次第──鉄道が果たして莫大な輸送に耐えうるか否か、連合国が所要の機関車を米国で手に入れることができるか、それとも、ロシアかフランスで製造させる以外に手がないか否か──それらはすべて自分次第で決まるのだ」。同時にまた、「大戦中、自分以上の権限をもった奴がいたかどうか聞くのは愚である」とも。

彼は1938年、南米からの帰途、ドイツはアメリカ侵略を目論んでいる、ドイツ軍のアメリカ侵略は近いとして、対独戦参加の伏線をしいていた。」

 

これ以外にも、ジャック・アタリ(ヨーロッパのユダヤ人シオニストコミュニティのスポークスマンとしての位置が彼にはあるものと思う)が言及しているものもあり、今後いくつか紹介したいと思う。

 

バルークは、ウィンストン・チャーチルと面会している動画や画像も存在し、彼らの間でどれほどの情報共有が為されていたのか知らないが、いずれにせよ、当時、ウッドロー・ウィルソン政権時代とフランクリン・ルーズヴェルト政権時代のアメリカおよびイギリスにおいて、きわめて影響力があっただろうことは想像するに難しくない。