2019年01月03日
引用 エゼキエル書 ― ジャック・アタリ
エゼキエル書のもっとも難解な言葉(39章17-20)も今や理解――すなわち、食べることが――できる。
≪主なる神≫はこう言われる、人の子よ、諸島の鳥と野の獣とに言え、みな集まってこい。わたしがおまえたちのために供えた犠牲、すなわち、イスラエルの山々の上にある、大いなる犠牲に、四方から集まり、その肉を食い、その血を飲め。おまえたちは勇者の肉を食い、地の君たちの血を飲め。雄羊、子羊、雄やぎ、雄牛などすべてバジャンの肥えた獣を食え。わたしがおまえたちのために供えた犠牲は、飽きるまでその脂肪を食べ、酔うまで血を飲め。おまえたちはわが食卓について馬と、騎手と、勇者と、もろもろの戦士とを飽きるほど食べると、主なる神は言われる。
ジャック・アタリ『カニバリズムの秩序』
【コメント】
Wikisourceでの訳文は次の通り。
17 主なる神はこう言われる、人の子よ、諸種の鳥と野の獣とに言え、みな集まってこい。わたしがおまえたちのために供えた犠牲、すなわちイスラエルの山々の上にある、大いなる犠牲に、四方から集まり、その肉を食い、その血を飲め。
18 おまえたちは勇士の肉を食い、地の君たちの血を飲め。雄羊、小羊、雄やぎ、雄牛などすべてバシャンの肥えた獣を食え。
19 わたしがおまえたちのために供えた犠牲は、飽きるまでその脂肪を食べ、酔うまで血を飲め。
20 おまえたちはわが食卓について馬と、騎手と、勇士と、もろもろの戦士とを飽きるほど食べると、主なる神は言われる。
以下次のように続く。
21 わたしはわが栄光を諸国民に示す。すべての国民はわたしが行ったさばきと、わたしが彼らの上に加えた手とを見る。
22 この日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを悟るようになる。
23 また諸国民はイスラエルの家が、その悪によって捕え移されたことを悟る。彼らがわたしにそむいたので、わたしはわが顔を彼らに隠し、彼らをその敵の手に渡した。それで彼らは皆つるぎに倒れた。
24 わたしは彼らの汚れと、とがとに従って、彼らを扱い、わたしの顔を彼らに隠した。
25 それゆえ、主なる神はこう言われる、いまわたしはヤコブの幸福をもとに返し、イスラエルの全家をあわれみ、わが聖なる名のために、ねたみを起す。
26 彼らは、その国に安らかに住み、だれもこれを恐れさせる者がないようになった時、自分の恥と、わたしに向かってなした反逆とを忘れる。
27 わたしが彼らを諸国民の中から帰らせ、その敵の国から呼び集め、彼らによって、わたしの聖なることを、多くの国民の前に示す時、
28 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを悟る。これはわたしが彼らを諸国民のうちに移し、またこれをその国に呼び集めたからである。わたしはそのひとりをも、国々のうちに残すことをしない。
29 わたしは、わが霊をイスラエルの家に注ぐ時、重ねてわが顔を彼らに隠さないと、主なる神は言われる」。
旧約聖書におけるエゼキエル書の順序は以下の通り。
猶はユダヤ教、基はキリスト教
<トーラー(猶)・モーセ五書(基)>
創世記
出エジプト記
レビ記
民数記
申命記
<歴史書(基)>
ヨシュア記 前預言者(猶)
士師記 前預言者(猶)
ルツ記 諸書・巻物(猶)
サムエル記上 前預言者(猶)
サムエル記下 前預言者(猶)
列王紀上 前預言者(猶)
列王紀下 前預言者(猶)
歴代志上 諸書(猶)
歴代志下 諸書(猶)
エズラ記 諸書(猶)
ネヘミヤ記 諸書(猶)
エステル記 諸書・巻物(猶)
<知恵文学(基)>
ヨブ記 諸書・真理(猶)
詩篇 諸書・真理(猶)
箴言 諸書・真理(猶)
伝道の書(コヘレトの言葉) 諸書・巻物(猶)
雅歌 諸書・巻物(猶)
<大預言書(基)>
イザヤ書 三大預言者(猶)
エレミヤ書 三大預言者(猶)
哀歌 諸書・巻物(猶)
エゼキエル書 三大預言者(猶)
ダニエル書 諸書(猶)
<十二小預言者(猶・基)>
ホセア書
ヨエル書
アモス書
オバデヤ書
ヨナ書
ミカ書
ナホム書
ハバクク書
ゼパニヤ書
ハガイ書
ゼカリヤ書
マラキ書
しばしば、ユダヤ教のユダヤ教たるゆえんについて、とりわけタルムードのみを用いて、その狂信性を指摘する文章が存在するが、実際には既に旧約聖書(タナハ)の預言者の言葉に既に、その狂信性を見て取ることができる。
キリスト教の出現により、いくばくか旧約聖書の預言書から目が背けられてきた歴史が西欧社会にはあるが、アブラハムの宗教が存在する限り、エゼキエル書における、これらの表現のジャック・アタリ流の解釈は必ず存在し続けることだろう。
次に、このジャック・アタリの結論に先立って彼は次のようなことを言っている。
「われわれは、食人種となることをやめることによってしか、食人種であったことから逃れる術はない。そして、われわれが食人種となることをやめるには、今日まで凌駕されずにいる≪カニバリズムの秩序≫そのものを、≪悪≫として、そのように対処すべきものとして追いつめる以外にない。」
ジャック・アタリはユダヤ教において存続し続けるカニバリズムの習慣の終焉を、新世界秩序を実現することによって、その未来の遥か彼方に見ているのであると思われる。
彼らがカニバリズムを≪悪≫と認識し、世界からこのような習慣をなくすためには、新世界秩序の実現が欠かせないと考えているのかもしれない。ただしかれらのロジックには一貫性が必ずしもないが故に、そもそもこれを≪悪≫として認識するつもりもないという可能性も実際には否定し難い。そのくらいに彼らの認識の意味の解釈は難しい。
とはいえ、一般論として、一般的な異教徒もしくは無神論者、およびそれに近い立場の人間からすれば、彼らのこのような論理は一ミリも成立しえない。世界にはカニバリズムの秩序が存在しているように、カニバリズムの秩序なしに秩序が成り立っている文明も存在しているのである。
現在、世界で進行し続けているグローバリズムの実現の背後には、一般的な日本人には全く信じられない話だが、じつは一神教から切り離すことができない生け贄、犠牲の問題がついて回るのである。それはエゼキエル書にもある通り、解釈次第ではいくらでも、異教徒の勇者や騎士や戦士さえも含まれうる。
彼らの信仰心が敬虔であればあるほどに、タナハ解釈への希求は終わりをみない。このような感覚を持つことは一般的な日本人には難しいことだろう。しかしどうやらそれが世界における信仰の在り方のようである。
新世界秩序あるいはグローバリズムとはこのような信仰心の延長線上に存在しているということを私たち日本人は真剣に向き合う必要があるのだが、このような論点を持って議論をしている保守派の論客は数えるほどしか存在しないのである。