連鶴を趣味で折り始めて早2ヶ月、最初のとっかかりは家にあった子どもむけ折り紙の本。そこでたまたま『秘傳千羽鶴折形』にある幾つか簡単な折り方が目に留まり、これくらいなら私でも折れるのではないか、と思い始めたら挑戦したくなるもので折り始めるとこれがなかなか面白い。

どんな事にでも当てはまると思うけれども、一歩目が上手く出来たなら更にその一歩先に進もうとする。ただの苦労ではなくて楽しさを知ったら達成感を味わうためのものになる。目標は達成出来なければただ苦しいだけであるので、他の誰から見ると目標は低くて手を抜いているとか向上心が無いと言われようとも、自分に対する自信付けの意味で到達出来る範囲で設定すると良い。例えて言うなら今まで山に登った事の無い人がいきなり富士山に登るようなもので、もし登り切ることが出来たとしてもその苦しさだけがいつまでも残って、また登る気が湧かないといったことになる。それをハイキングから始めて徐々に高い山を目指す方が今自分がどれくらいの高さを登っているのか、周りの景色はどうなのか余裕を持つことが出来る。余裕は楽をしていると言うことではなくて自分の置かれている状況を把握出来る様々な感覚を使うことである。自分の力量を超えた山に登っていると、ただ登っているという事にのみ気持ちが向かってしまい山肌の感じやそこで聞こえる風の音、その場でしか経験出来ないことを逃してしまう。まずは自分がやり遂げられる事を探すことが重要になってくる。慣れというのも必要であると考えられる。慣れとは繰り返しの練習でもってその対象との距離を短くするものだと分かる。要はそれが身近な存在になること。今取り掛かっていることに対して親しみを持つことと言い換えることが出来よう。私の場合連鶴を折ることがそれに相当するが、連鶴と言っても結局やっていることはひたすら鶴を折ることである。当初の目標は『秘傳千羽鶴折形』にある鶴で折りたいと思ったものを折る。どんな紙が相手でも折ることには変りはないが、勿論折り易い紙があってそれを材料にする。最初は新聞のチラシでも十分。難点は自分で長方形なり正方形を作らないといけないので、正確に紙を裁断しないと鶴を綺麗に折れなくなることと飾っておくには少々貧相である2点。羽根の部分からチラチラ見える豚肉や洋服の広告などまず人にはあげられないし、仮に貰ってくれても捨てられる事うけあい。誰かに貰ってもらうことが次の目標になる。今までの様にスーパーのチラシではない紙が必要になってくるが市販の折り紙では駄目。連鶴は2つ以上の鶴を折ることになるので折るにはある程度大きな紙でないと非常に折り難い。もっと上達すれば既存の紙でも出来るかもしれないが今はまだまだ。以前は連鶴作品を自己満足のために折っていたけれど、自分の作品を見て他の人が連鶴挑戦して貰えるようなそんなものを作っていきたいと考えるようになっている。単純な繰り返しでもその中に新たな発見が見つかるようになってくると、同じ事を何度もするのでも内容が違ってくる。連鶴の歴史は1800年代には既に現在折られている原形ができていたわけであるから、自分のやっていることは元々無い物を生み出すわけではなくて、在るものの繰り返し、誰かが行ってきたことの繰り返しで目新しい発見や創造が無いと思うかもしれない。自分自身のやっていることが誰かの繰り返しに過ぎないと感じたとしてもそれはそれで構わない。昔誰かが感じた気持ちになるかもしれない。全く同じなら、自分と同じ考えを持っている人がいることで共感を覚えるだろう。連鶴が作られた時の作った本人の気持ちやその作品に対する評価なども分かるかも知れない。これまで文章を書くのは考えも無しにただ日々の面白かった・良かったなどを書き留めておくものとしてブログを利用していたが、どうも文字を考えて書くことをしていなかったこともあり、何を書いて良いか分からなくなってきた。つまりはネタ切れである。特に変ったことの無い日常でネタの「種」はそうそう見つかるものでもない。あったとしても自分の力量では芽が出そうにもない。折角モノを書くことを出来る場があり、それに向かっている自分というものがあるのだから、文章を書く力も付けなければ損というものである。自分以外の誰かが見ているという意識でもの書く読んで何かの参考になるようなことを書けるように、もしくは自分がこの文章で何か新しい発見を出来るようなそんな文章を残していきたい。というのが今日読んだ本の感想です。