ラノベを書きたい。急にそう思ってしまった。
ラノベ中毒者の友人M氏にいろいろ借りて読んでみたが、どれもパっとしなかった。何が足りないのだろう……。惹きつけるものはあるにしろ、入っていけない。
表紙にときめく。ここまではいい。
しかし、読み進めるうちに不安になってくる。その不安の一つは「時間浪費」である。ラノベと言っても、一応は活字媒体である。読了にはそれなりに時間がかかる。これを読み終わったとき、得るものがひとつでもあるのだろうかという疑念だ。時間をかけた分、とりあえず何かが欲しい。斬新な発想、人生を示唆する言葉、日常に反映できる知識等々、そもそも、人が書物を手にするというのは、そういう脳みその「栄養」を求めているからなのであるが、一社会人である僕にとって、ラノベは駄菓子の役割すら果たせずにいる。
じゃあ読まなければいい。と人は言う。
そういうわけにはいかない。何故か無視はできない。冬の海岸を見ているような気分だ。夏、ここは間違いなくパラダイスなのだが、今は泳げない。太陽も照っていなければ、水着ギャルもいない。屋台もない。今はここには何もない。しかし、ここでなければならない何かを痛感する。
仮定するに、
冬の海=現実
夏の海=夢
ときどき、面白い夢を見る。荒唐無稽で、矛盾だらけであるが、目覚めてみると、如何にその世界がイカしていたかを実感してしまう。そうした浮遊感の再現を、人は現実に求める。
しかし、文章にしろ映像にしろ、芸術分野でその感覚を再現できた例は、未だかつてない。奇を衒おうが、シュールレアリスムしようが、少なくとも受け手には、100%の夢の実感は得られない。その夢想を作品から感じ得ることができるのは、恐らく創作者ただ一人である。
ラノベは、妄想である。
それは夢の感覚を再現しようと試みる行為にほかならない。そして、よほどの感受性と協調性がなければ、他人の書いたラノベに満足することはできないのである。
結論を言えば、
ラノベは、自分で書いて自分で読む。これが正しい。ラノベ作家になる必要も無ければ、自作がアニメ化される必要もない。できるだけ、自分中心の文体で書き、自分のフェチズムに忠実になり、自分を納得させることを目的とする。読み手のことなど想像した瞬間、ラノベのクオリティは一気に低下する。ラノベは本来、商品化してはいけないジャンルなのだ。
「自分の自分による自分のための小説」
それがラノベである。
と、いうわけで、僕はそんな思想を持ちつつ、「自分のためのライトノベル」を現在創作中である。