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★自作乙★

小説について考える日々のあれこれ。創作日記。読書。自己分析。

 あれも萌えるこれも萌える。ブリキの絵なんか特にいいぜ。中でも「はがない」の柏崎星奈は絶品だ。最近のワンピの女、乳でかすぎだろーが。ハンコックのフィギュアが欲しい欲しい。他には誰だ…うう、萌キャラが多過ぎる。


ここ10年で、漫画をはじめ、イラストの女の子の絵が急激に成長している。今どき誰も北斗のユリアや聖闘士聖矢のアテナさんなんかじゃ萌えないだろう。ジョジョの空条徐倫などに萌える変わりものがいるかも知れないが、圧倒的少数派であることに違いはない。


さて、今どきの女の子のマンガ絵がある。それらの女の子の特徴として、


鼻が「点」、または「無い」


のである。


旧世代のマンガと比べて、それはもう歴然であり、実際我々の感覚からしても「星飛雄馬の姉」と「けいおん!の秋山澪」のどちらが可愛いかは、考えるまでもない。秒殺である。


目は顔の半分を締め、鼻は点、口も線。まあこんなのは現実にいたら当然化け物なのであるが、こと二次元においてはそのビジュアルは「通俗」であり、やはり「可愛い」と思えるのである。パチンコのキャラなども、芸能人をマスコット化した「鼻無し二等身」が活躍していることもあり、もはやこの感覚は若い世代だけではなく、中高年にまで及んでいると言っても過言ではないだろう。


では、何故我々は「鼻」の無い顔に惹かれるのだろうか?


「嗅覚」とは、動物において比較的優先順位の高い機能であり、人間を除く大半の哺乳類は、その生存競争において、餌を探すことや仲間を見分けるなど、鼻の能力に頼るところが多い。


人間は味覚が発達しているため、さほど嗅覚を必要とはしない。そのため、味覚に関する言語は「美味しい」「不味い」「甘い」「辛い」「塩っぱい」「苦い」「酸っぱい」などと多々あるのに対し、嗅覚は「いい匂い」「臭い」ぐらいしか言葉が存在しない。言葉の量が、その感覚の多様性を物語っているのである。


さて、言葉が無いこと。ここに重要な意味が内包している。


嗅覚の最大の役目。それは


「死」の実感である。



「死臭」という言葉があるように、生き物が腐敗したときの臭いは凄まじいいものがある。特に腐った人間の臭いは、想像を絶するらしい。

土葬が主であった日本では、元々線香は葬儀の「消臭」が目的で使用されていたのである。供養のためではないのだ。

古い家に住んでいる人なら分かると思うが、昔の家には大抵「縁側」があり、庭先に通じる大きな引き戸がある。これは本来「棺桶」を出し入れするためのものである。ここまでの話で分かると思うが、元来日本人は「人が死ぬのは当たり前」という感覚をしっかりと持っていたのだ。


もちろん、それは現代人も一応は胸の内に置いている逃れようのない事実ではあるが、昔に比べて「死」という概念を大きく遠ざけていることには違いない。今どきのアパートやマンションの設計には、棺桶の出入りなど、全く計算に入ってはいない。


こうした「死」との距離こそ「鼻の無い女の子」が生まれた根源にあるのではないかと、僕は思う。

「嗅覚」の拒否は、すなわち「死」への拒否となる。芸術において「鼻」の表現状態は、その時代の「死」に対する関心の有無とも言い換えられる。鼻な小さければ小さいほどに「美しい」。これが現代人の感覚である。


では「美」とは、何を意味するのか。


少なくとも、生物においては「美」は「儚さ」であり「短命」で、また「瞬間的」な存在として認識されている。人間の「女」は「花」などに例えられ、若さを期間限定の「美」と考えるのは今も昔も変わらない。


しかし、それだけでは済まないとする考え方もある。その外見を永遠に保ちつつ、且、内面にも美しさを備えた完全体としての「女性」を求めてしまうのは多かれ少なかれ、男なら誰にでも心当たりがあるし、その根源はおそらく「母」に帰結する。

今でこそ、医学の発達で出産による「母親」の死亡率は激減したが、昔は出産における「入れ替わり」つまり、死を伴うお産も少なくなかった。自分が母の死と引き換えに存在しているという事実を知った子供は、その彼岸に優しく美しい「母親」を想像していたに違いない。


完全美にもっとも近い存在は、永遠に触れることのできない「彼岸の母」である。



「聖母」という概念がある西洋では「マリア像」がまさにその象徴であり、日本にはそういった共通の概念が無い。「菩薩」「如来」などは、存在としてはありがたくとも「母」には成り得ない。聖母無き国では、想像力こそが精神の乾きを救う手段である。マンガやアニメをはじめ、世界的にも日本の創作能力が高いのは、この辺に理由があるのではないだろうか?


これらの点において、「不変の美と不死の身体」を備えた母なる女性を無意識の中に求めることと「死を覆い隠し続ける現代」が調和され、それが「二次元」という表現手段で反映されたとも考えられる。

つまり「鼻の無い女の子」を見て可愛いと思う我々の感覚は、「死」の超越への願望の表れなのである。


「嗅覚」の拒否=「死」の超越=「完全なる母」=萌えキャラ


つまり、現代人にとっての萌キャラとは、「彼岸の母」のモデルタイプとして、精神の深い部分を揺らがせている存在なのである。


萌とは、性欲を伴わない異性感情である。それは限りなく「血縁」の領域に近い「異性」として見ているからなのではないのだろうか。

あなたが萌えるあのキャラは、実は幼少期の自分にとっての理想の母の姿であったのかも知れないのだ。




そういえば、最近の(人間の)女の子の化粧は、どんどん「絵」に近くなっている。ラインが強調され、絵的な表現が賞賛される美しさの価値観は、人類の「二次元回帰」への兆候なのではないだろうか?