3月28日、髙木雄也さん、清水くるみさん出演の舞台
「東京輪舞」
を観劇させて頂きました。

当ブログは東京輪舞の自己解釈、そしてネタバレを多く含みます。
また、性行為に関する話もいくつか含みますのでそのような話題が苦手な方は閲覧をお控え頂けると幸いです。


舞台を観劇した時、色々な感情が自分の中に渦巻きました。自分と重ねてしまっていたこと、逆に乖離しすぎて疲れてしまっていたこと。
そんな感情全てひっくるめて、折角なら感想を残そうと言う考えの元書いております。誰かに読まれるためではなく、自分のためのブログです。自分の思ったこと、考えたこと、忘れたくない感情の吐き出し口に過ぎません。解釈違いも甚だしいことも理解のうえで、自分の考えをまとめました。
それでもお付き合いくださるのであれば、どうか私の感情を否定せず、新たな視点としてご閲覧いただけると幸いです。



東京輪舞、元の舞台であり問題作であるアルトゥル・シュニッツラー作、「輪舞」と言う舞台と同じく普遍的な関係性、欲望を描いた人間味の溢れる舞台。
舞台の内容に深く踏み込んで書いております。演技よりも内容、舞台の脚本構成重視の感想です。




東京輪舞、始まりは少女と配達員。マカナと名乗る少女に配達員の少年が商品を届けに来る、しかし少女にそれを支払えるほどの金銭はない。ましてや未成年でお酒を受け取ることなんか出来やしない。それをどう受け取るのか、普通であれば受け取れない。だから、体で支払う。その様子はまるで、獣のようだ。

交尾をする。

マカナと言う少女を見た時、私の脳内に浮かんだイメージは一つでした。最近問題視されている、「トー横」に居る少女。それに近いような、そんな感じ。彼女は明日を生きれるかも分からないギリギリのラインで過ごしているのでしょう、それはそこに集まる彼女たちにも重なるものがあって。最後に金銭を要求します、5000円。体を売ってその日を切り抜くのは、彼女の生存本能とも言える気がしました。今の世の中有り得なくない、物語だけのフィクションで終わらせることが出来ないのが現状。でもそれが、この東京輪舞と言う舞台では、始まりに過ぎないのだと、この後舞台が進んでいくにつれ段々と自覚していくことになります。



舞台は代わりクラブへと時間が進む。そこに居るは先程マカナと関係を持った配達員、そしてマカナではない別の女の子、ジャスミン。クラブの外へとジャスミンを連れ出した配達員はカイトと名乗り、彼女を口説く。その後ホテルへ行く。男女がホテルに行ったら、大抵やることは一つ。

セックスをする

事後、ほんの少しの会話を挟みカイトはコンビニへ向かい追加のゴムと飲食物を持って戻って来る。なんとなくニュアンスで覚えているのは「食欲も性欲も嵐みたいなもの」なんてセリフで。確かに一理ある、人間の最大欲求に食欲も性欲も含まれているのは、それもまた本能とも言える。そんなこと言う男に疑いを持つのは当たり前で、ジャスミンが大事なものを置いていけと言うのには納得した。しかし性欲というのは人間を軽くバグらせる機能でもついているのか、そこから恋愛に発展するのか。行為を重ねれば重ねるほど、この二人はお互いにほんの少しのめり込んだようにも見えた。
カイトは見るからにどこにでも居る普通の男だと私は思いました。でもほんの少し、普通の男よりかは言葉が上手い。それと同時に、ほんの少しジャスミンは純粋すぎる。でもクラブならそれは普通です、クラブで踊り言葉にも踊らされる。そこからホテルに行くことなんかだいたい想定できる。よくある男女の関係であり、この世にはいくらでも有り得てしまう事例でもある。この舞台を通して一番普通に近しい関係を築いたのはこの二人なんじゃないかな、と思うくらいには、平凡。でもそれと同時に、性欲は人の知能を下げているようにも思いました。大学生のよくある恋愛、それに近い何か。性欲を挟んだ先にあるのは恋なのか否か、それは当人にしか分からないのだろうけど。




場面は代わりジャスミンの仕事先へと変わる。家事代行先の家でカイトと連絡を取り合うジャスミン。恋人から連絡が来たら仕事中だって連絡返したくなる、分かる。そこに現れたのは家事代行先に住まう息子。そこから始まる他愛ない会話、よくある会話。「前してくれたマッサージしてよ」なんてセリフ。マッサージしている最中、息子はジャスミンに家族の話、論文の話を広げていく。突拍子もなく息子から告げられる、「エッチしてみない?」なんて言葉。ジャスミンがそうするしか無かった、そうすることでしか金銭を稼げなかった、AVの話。それをチラつかせ、彼らは事に発展する。

手でする、される。口でする、される。

見るからに最低な男だった、あの息子は。自分の欲のままに動く最低な人間、でも、序の口。凄く不愉快だと感じる、でもその感覚は正解のようにも感じる。作りが上手いとしか言いようのない物語の展開。二人の演技も上手いんです、マカナとジャスミンが、配達員とこのクズの息子が、別人に見えるんですから。事が済みインターホンがなると急に慌てたように、でも冷静に、かつ冷酷に、帰ってと言い放つんです、息子が。くるみさんの演技が記憶に染み付いて仕方ないんです、ほんの少し苦し紛れに帰っていくあの様子が。人間としての本能に従いすぎた少年と、生きるための隠し通してきた過去の術を暴かれ盾に取られ脅される少女の対比が、酷く浮き彫りになったように思えました。きっと私たちが見えていないだけで海外から来た少女が同じような目にあっているんじゃないか、あっているからこのような表現をされているんじゃないか、まだ世の中見えていないものが多すぎる自分の未熟さを感じる一幕でした。この物語はフィクションかもしれないけど、実際にはノンフィクションで起こり得ることかもしれない。踏み込んではいけないものに踏み込んでしまった感覚。最低な人間を目の前にすると、言葉は出なくなる。私のこの息子をクズだと思ってしまう感情は、最後まで覆ることはないです。舞台を最後まで見ても、ああ、クズだったな、なんて。私はこの時はまだ、この展開が続くのであれば早くに終わって欲しいと頭の片隅で思ってしまうくらいこの舞台を最悪なものと認識していました。私が近くにいる異性を苦手に思うような一つの理由に、性欲が含まれているから。前半は全てそのような感覚に陥ります、正直疲れると言えるほど。だけどその感覚は後半に行くにつれて覆されていくのです。この疲れも、後半のために必要な疲れなのです。



ほんの少し時間が進み息子が慌てたように部屋の片付けを始めます、家事代行には友達などと抜かしながら来るのは彼が惚れている「先生」という存在。大学生、性欲が暴走してしまう時期なのもなんとなく理解していて。でも、その先生と呼ばれる彼女は既婚者だ。そう簡単に結ばれることは無い。そして彼女が一枚上手なのだろうと見ていてよく分かる。あらゆる口説き文句で、彼は彼女を求める。翻弄されているのが目に見えてわかる、けれど確かに彼女も息子にほんの少し恋という感情があるのは理解出来た。天文学的に惚れている、好いている。それが本気の言葉なのなら、5点中の5点満点。その先で彼らはこの部屋で、事に及ぶ。

射精する、される。

暴発したんだろうな、と思う台詞回し。ほんの少し笑いも出てきてしまう。ジャスミンの前では彼女の過去を盾に性欲を押し付けたこの男が、好きな女を前にするとただの犬のように感じてしまって、そこにもリアルな人間味を感じて、嫌気がさした。リアリティがありすぎて、身近に感じてしまうような人間性。だから尚更嫌になった気もする。
スタンダールの恋愛論の話がここで始まる、普通に書籍として売っているので、気になる人は読んで見てほしい。私ら読んだけれど、個人的には面白くて好きだった。そこから抜粋して話は進んでいく、恋愛論はまさに「マサくん」のようだと彼女は言う。マサくん、息子のこと。話が進んでいき、大学生の性欲をなんとなく思わされる。大人と子供を感じた余裕の差、また時間はピンク色へと染まっていく。

エッチする。

体力を要する性行為の後は、眠気を覚える人も少なくはない。二人は寝過ごし、夜は更ける。既婚者である彼女は酷く焦り、嘘をつけないのだから呼びつけるのなら嘘まで考えてとマサくんに言うのだ。最終的に子供じみた考えのマサくんは、「自分のせいにしていいよ」と口にする。彼女はそんなこと許す訳もなく、酷く怒りに満ちた声で私に失礼だと告げた。耳障りのいい言葉で表せば、禁断の恋愛に二人はお互いのめり込んで落ちている最中なのだ。一度距離を置こうとする彼女を引き止め、欲し、欲に溺れていく。恋に酔い、愛に沈み、依存していくようなもの。二人はなんとも言えぬ関係のまま時間は進んだ。第三者という視点に置かれた私にとって、二人は馬と鹿でしかない。そう書いてバカと読む。マサくんと言う性欲を振り回し異性を傷つけた人間が、次は性欲に振り回され異性に溺れていく様を見せつけられていたのだ。このたった二幕で。この時点で前半は終わりへと向かっていく。この時点で私は割と疲れのピークだ。舞台の全てに感情移入しがちな私が、ここまで感情を乖離した状態で見ることもなかなかなくもはやそのせいで疲れを感じているまであった気がする。きっと私は一生、この二人にだけは感情移入できないのだと思う。



時間が進み、先ほどの作家の夫婦関係に視点が移る。ショウジサヨ、彼女の名前。まるで同一人物には見えなかった。サヨと先程の先生が、同一人物だとほんの少し思いたくなかった。会話の内容はまるで素敵な夫婦のようで、キメセクだなんだ言っている時は理解不能ではあったけれど、至極真っ当な夫婦関係なのだ。その裏でサヨが別の大学生と不倫しているなんて、なんとなく思いたくないような、でもそれが現実なのだと見せつけられているような、そんな感覚。何度も出会いと別れを繰り返し、恋人のような期間と友達の期間を行き来していると言うセリフには何となく頷いた。その感覚は、異性だろうが同性だろうが起こりうる感覚なのだから。風俗の話もここで出てくることになる、夫は否定じみたことを口にすると、サヨは「それも立派な仕事」だと肯定した。私の友人にも風俗関係で働いている人は数人いる、理由は様々だが今を必死に生きているのだと彼女たちを見ていると思うのだから、確かに立派なのだろうと見ていて思った。理解されないからと言って否定していい理由は何処にもないのだと、この舞台はこちらに伝えているような気がして。夫婦にしか分からない、甘い時間。それを第三者の私たちが覗かせて頂いている、そんな時間。二人は言葉を合図に、ベッドへと沈んでいく。

愛する。

前半の終わり間際に合っているような、間違っているような、そんな夫婦の一幕。これから先どんな男女が待っているのか。そんな考えを持つ方が間違っていたような気がします。性欲を持つのは、男女だけの間では無いのだと、自分のことさえ否定していた自分を見つめ直させてくれる時間が始まるのでした。



まずクィアとは何か。クィアとは元々、同性愛者の蔑称として使われていた単語でしたが近年クィアの方々が自ら発信し最近はポジティブな意味で使われるようになった単語です。LGBTとはまた違う形の性的マイノリティを持つ方々となっております。そんなクィアと夫がとあるホテルのスイートルームでなにかに酔った、と言うよりも薬物乱用している現場から始まるのです。スイートルームでハンバーガーを頬張り、お互いに言葉で過去に干渉していく。クィアであるマキと言う存在と、夫のタツヒコの会話が繰り広げられていく。そこでタツヒコは嫁がショウジサヨであることをマキに伝えるのです。マキは、「サヨの文章が好きだった」と言います。ここまで複雑に入り乱れている人間関係は類まれに見る程度なような気もしつつ、芸能界では平然とありそうな事だとも思いつつ、舞台はそんな私を置いて進んでいきます。マキがサヨも不倫してる、なんて言葉を告げればタツヒコはそんなことないと口にします。不倫していなきゃあんな文章書けないと告げ、ちゃんと読んでる?なんて言葉さえかけて。ここの二人の会話はやけに記憶に残っていて、自分がマキに自分を重ねてしまっていたのかもしれない、なんて考えてしまうほどで。この二人は同性で、タツヒコはマキによって自分の性自認を自覚して、お互いがお互いに影響しあっているようにも捉えられるつくりでした。二人はキマッた状態のまま、奥のベッドへと体を預けに向かいます。

性交する。

ここから人々の関係、視点が、男女だけではなくLGBTQや同性同士への視点へと切り替わっていきます。この瞬間何となく、「あ、自分が認められた」そんな風に捉えたんです。余談ですが私は根っからのレズビアンで、今も同性の恋人が居ます。それでも、家族に受け入れられるまでは時間がかかった。相手の家族に受け入れられるかも分からない状態。だから、どれだけ取り上げようと世間に受け入れられるのは遠い日の話だと思っていた。だけどこの舞台は、この舞台を見た瞬間だけは、自分のほんの少しズレた性欲と恋愛感情が認められたような気がしたんです。この舞台を見て、この回を見て、私は安心しました。話は戻ります、この二人はそのまま微睡みに溺れ舞台は切り替わっていきます。だけど、マキはまるで女性のようで、当たり前です、女性が演じているのですから。だけどそれだって、偏見、偏った目線でしか物事を見れていなかっただけなのだと自覚するのです。



マキがインフルエンサーのチャムの部屋にやってくる。マキがクリスマスに過ごしたい人と言ったのは、きっと彼のことなのかもしれない。ここに居るのは二人とも、クィア(クエスチョニング)なのです。お互いが芸術に触れている存在、まさに近しい存在だと言うのが正しいのでしょうか。この二人だけ、これより前の男女に比べると「異質」なんです。男女と変わらぬ他愛ない会話をしている中に見えるお互いの線引き、そして性別という名の高い壁。確かに舞台の移り変わりの時、確かに感じた少しの違和感、ステージの反転。何かを表しているのだとそこで少しは勘づく作り。会話が進むにつれてお互いの素性が何となく分かってくる感覚。私だけかもしれない、だけどこの時点で二人は似ていると私は感じていた。時は流れ、チャムが歌を歌います。流石、アイドルだけあって歌は上手くて、素敵だった。コンテンポラリーダンスは元々大好きなジャンルで、くるみさんの演じるマキに酷く惹かれもした。とても、素敵で仕方なかった。この二人はどう結末をつけるんだろう、性行為なんてこの二人は及べるのだろうか、そんなことをして欲しくないと少しでも思ってしまった。私の感情は舞台を否定するようなものだったと思う、だけどこの二人が見つめ合い、選んだ答えに見ていた私は第三者ながらに酷く安堵しました。

セックスをしない。

私たち似すぎているね、だからしない方がいいね。うん、それがいい。違うからするんだ、発見だ。うろ覚えでしかないけれど、このセリフは記憶に残っていた。舞台から月日が経っても忘れないくらい、記憶に残る台詞だ。女の衣装を身にまとった女と、男の衣装を身にまとった男。それが、入れ替わる。自分の中の固まってしまった思考を砕き壊された感覚。こちらが、間違っていた。何となく息が詰まりました、似すぎていた二人が入れ変わった瞬間、なんだかパズルのピースがハマったように私は感じたのです。涙が出そうだった、別に泣くほどのことでは無いけれど、これはきっとその当事者として、性別や恋愛対象や自分の中での自分について酷く悩み苦しんだ人にしか分からないものがそこには確かにありました。それを、この舞台は、この二人は描いていた。チャムだったはずの髙木さんがマキになり、マキだったはずのくるみさんがチャムになる。でもそこに違和感はなかった。「いらない」と名付けられた曲も、本当は欲しがっているように、二人も何となく近しいようで真逆のような気もしてきた。チャム、基オトナとマキはホリデイを後にする。その最後の瞬間まで切なくて苦しかった。



まず一つ、ポリアモリーとはと言うところから書き出します。ポリアモリーとは、関与する全てのパートナーに許可を取り複数のパートナーの間で親密な関係を築く人の事を指します。そんなポリアモリーの俳優、フクモトジンとインフルエンサーチャム、基オトナの話へと物語は続いていきます。チャムが向かった先はジンの居る場所。舞台終わりのジンと共に入ってきます。ちゃんと認識出来るんです、最初に演じていたのは髙木さんのはずなのに、くるみさんの演じるチャムも最初から何も変わっていないくらい、違和感がない。世間から断絶された関係を持つ2人に襲いかかるのは、やはり性別や性的嗜好の壁。ゲイでありポリアモリーであるなんて、確かに世の俳優が公表したら評価は下がりかねないことである。そんなことない、なんて手放しに言えないのがこの世の中の状況。実際、同性愛は政治的には認められていないものでもあり、否定をする人間も未だ多いまま。ポリアモリーなんて尚更、人によっては浮気だなんだと言う人間も必ず現れる。世間から受け入れられていないものを、ここでは広く扱っている。段々と感覚が麻痺してくるんです、この舞台。愛のカタチ、定義が広がれば広がるほど前半の複雑な関係さえも何もかもがどうでも良くなるんです。誰一人として、不幸になっていい人間なんて居ない。感情移入が出来ないだけなのだ、思考が理解できないから。理解できないからと言って、否定していい理由など何処にもない、この舞台を見るほど私がそちら側にのめり込んでいく感覚。チャムとジンの会話が進めば進むほど、感情がぐちゃぐちゃになっていくんです。スクランブルエッグみたいに。ジンには奥さんが居るんだと思うと、ポリアモリーの奥さんはどんな感情を抱えるんだろう、認められるんだろうか、なんて。それは後々答え合わせが来る。でもその答え合わせが来ると理解していても、来ないで欲しくなってくる。そこには確実に終わりを迎えたくない自分の感情が芽生えている。世の中を変えられないと吐き出す人間と、変えるよと言う人間二人の選択肢。

関係を持つ。

もうここに直接的な性に関する言葉なんてなかったんです。セックスをする、交尾をする、エッチする。世の中では低俗と呼ばれそうな言葉も今この舞台の中では一つの行動として表記される。当たり前なんです、ただの行動を表す単語が表では規制音と共に流されがちな言葉になっている、その規制音から私たちはその言葉を低俗でイケナイ言葉だと思い込む。ここまで考え込んでいるのなんて自分くらいなんじゃないか、と思うくらい常に思考がめぐり続けていました。それと同時に思考がさっぱり現れた感覚。気づけば終わりまであと二つの物語。寂しかった、すごく。



ここで話はさらに進み、過去と繋がる。ショウジサヨの離婚が二人の間に話題として上がる。あんなにもイカれつつ平凡な夫婦は、離婚するのだ。子供の話も話題に上がっていたあの二人が選んだのは、別れること。それが今度はこの二人の間で話題に上がる。全て同じ世界線で起きて、同じ世界線で進んでいる話なんだと実感した。それと同時に、時が流れるのは案外早いのだと思い、ほんの少し焦りを覚えた。社長がショウジサヨの離婚の話題を読み上げ、会話が進み、ジンが口を開く。「好きな人が出来た」なんて言葉。モノガミーにとって、それは酷な言葉かもしれない。理解できない言葉かもしれない。それが表に出ていた。枕をぶん投げ、怒りとも悲しみとも感情が混ざり苦しげな言葉が彼女の口から紡がれていく。差別されるかも、殺されるかも、朧気だけどそんなことを言っていた気がする。二人の間にいる息子にはどう説明するんだと言っていたのも覚えている。大変だ、人間関係は。でも確かにジンさんは、彼女のことも息子のこともチャムのことも、全部ちゃんと愛していた。ポリアモリーとして正しい在り方だった気がする。でもどうしてもここは苦しくて、どちらの不安定な感情も全て受け取ってしまって、苦しくなった。それでも何となく、この二人はサヨとタツヒコのように別れを選択することはないんじゃないかって、見ていて安心してしまった。日差しが差し込む中、二人は布団に潜る。

一緒に寝る。

案外これが男女にとっては難しいことのようにも思う。何もせずただひたすらに目の前にある睡眠という今までフォーカスされなかった欲求を貪るように満たす行為。性欲にスポットが当たっている舞台の中に、暖かさのある欲求を覚えた時。ここまで全員、歪んでいてもそこの間に愛が存在していたり、間違った性欲の発散していただけにも思えてしまった。誰一人として、不幸になっていい人間なんかいなかった。何一つ感情移入できない前半に覚えた疲れも、理解ができないのだからそれは当たり前なのだと飲み込んだ。気づけば私は舞台に呑まれていたんだと思う。もうすぐ終わってしまうこの舞台の終わりが寂しくて苦しくて、まだ終わらないでと願って仕方なかった。この人たちは、きっと、まだこの先があるから。この先に、全員未来があるから。その先の未来まで見たかった、幸せになって欲しかった。とにかく、終わらないで欲しい。ここからそんな感情だけが渦巻いていました。



ここで場面は変わり、とある小さな部屋へと移ります。ショウコさんが目覚めるんです、ジンと共に居たはずのショウコさんが。共に眠っているのは始まりの少女、マカナ。今までフォーカスされなかった関係、女同士の関係へとフォーカスされます。マカナは社長を「マダム」と呼びます。 酒に酔っていた、そこでマカナを買った。ジンの時から酔っ払った時に自身をマダムと呼ばせがちだったのは見て取れます、愉快な人だ、本当に。劇中の中で私の一番好きな登場人物です、ショウコさん。でも、何となく幸せそうに見えない中で、マカナとの会話は楽しそうだった。ちゃんと会話をしていた。どこか乖離しているような狂った会話でも、酷く距離を置いた会話でも、どちらでもない。どちらも適切に面と向かって、ちゃんと話が出来ていた。マカナ、ジャスミンと同居するみたいで安心した。ジャスミンはカイトと別れたらしい、そしてマカナはカイトとジャスミンが恋人同士だったことを知っていた。そしてカイトはマカナとその後何度も行為に及んでいたことも、ここで明かされた。結局最初から最後まで全て繋がっていて、巡っていた。マカナと言う華奢で元気で可愛い少女を演じる髙木さん、確かにそこにマカナは居た気がしました。最後まで布団の中からマカナは出てこなかったけど、きっとショウコさんの目をちゃんと見て話していたんだと思います。可愛いんだろうな、その姿も。この二人は事後です、だからもうなんの関係も行動も表記されない。それでいい、それがいい。だけど、きっとショウコさんが部屋を出ていってしまったらこの物語は終わってしまうんだと思って寂しかった。マカナに贈り物さんと声をかけ、マカナにどこが好き?と聞かれれば「すごく純粋なとこ」と答えられるそんな大人な女性、それがショウコさんだった。

最後、本当に本当に終わり、ショウコさんが出会った彼は誰だったんだろう。警備員とショウコさんが見つめ合うところで舞台は終わります。

最後まで、素敵な舞台だった。
終わらないで、まだ隠さないで、幸せになる先の光を見せて。そんな感情を持つと同時にきっとこの先の物語は私たちは見せて貰えない、見ることは許されないものなんだと思った。だけどこの先、この東京輪舞に出てきた全員が、正しく暖かい愛の道を歩み、幸せな人生の幕を閉じられることを願ってしまう。髙木雄也さん、清水くるみさん、お二方の演じた人間味溢れる個性豊かな人物たちの人生に、沢山の彩りがありますように。

性欲と愛は紙一重であり、遠い存在である。私の中の凝り固まった価値観を一掃されるような感覚。もう一度見たいと思ってしまうと同時に、二度と同じ感覚は味わえないと理解してしまうこの感情に、私はどう名付けたらいいのか未だに答えが出ていません。

少なくとも私はこの舞台に救われた部分がありました。自分の中の性と向き合い、愛の形に囚われない人生を歩みたいと思います。

大千秋楽お疲れ様でした。円盤化の望みは薄いかな〜と思いつつ、いつかまた、東京輪舞と言う作品に触れることが出来たら嬉しいです。素敵な体験、時間をありがとうございました。