昨日、あるテレビで歴史上の人物を紹介していました。その番組はどちらかというと「おちゃらけ」番組で、その人物に所縁の場所まで行って、小芝居を通してその人物を紹介するという内容なのですが、題材になった人物が素晴らしかったのでここで紹介したいと思います。

天正三年(一五七五)、長篠城は武田勝頼の大軍1万5千に囲まれ、食料も乏しく、苦戦していました。岡崎の徳川家康に援軍を求めたくても、使者が城から抜け出ることはすなわち死を意味します。そんな折、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という武士が自ら志願して使者となりました。強右衛門は見事に武田軍の厳重な包囲網を突破し、家康がいる岡崎にたどり着いたのです。

その頃、岡崎の家康は岐阜にいる信長が援軍を送らない事に業を煮やし、「かくなるうえは、この家康、武田勝頼と和睦し信長公を攻め落とす所存。」と信長に反旗をひるがえす書簡を出しました。これを聞いた信長は「ふふふ、家康め、そんなたわけた事を・・・。承知!この戦い、援軍などというケチなものではなく、この戦いそのものをこの信長のものにしてくれるわ。」と言い、数万の大軍を送る事としたのです。

強右衛門が家康本陣の岡崎に着いたのは、その信長の動きが出た直後でした。家康は「信長との連合軍をすぐ長篠城に送る」と強右衛門に伝えました。強右衛門は畳に額をこすりつけ、感激のあまり誰はばかることなく号泣しました。家康は「大儀であった。そこもとはこの岡崎に留まり体をゆっくり休まれよ。」と勧めましたが、強右衛門は「このような朗報、一刻も早く長篠城主奥平貞昌様にお伝えしとう存じます。」と再度勝頼軍が取り囲む長篠城に戻ることを決意します。

ところが、今一歩というところの長篠城下で運悪く勝頼軍の囚われの身になってしまいます。勝頼の詰問に対して、強右衛門はあっさりと援軍の事実を告げてしまいました。そして、あろうことか「長篠城に行き、『援軍の望みなし』と告げよ。さすれば、当家で取り立ててやろう」といった申し出まで簡単に受けてしまったのです。

すぐ強右衛門は勝頼軍に連れられ、長篠城までやってきました。
「皆の衆、鳥居強右衛門でござる~~!」
城中の者は強右衛門の言葉に耳を傾け、次の言葉を待ちました。
強右衛門の脇にいた勝頼軍の家臣は「援軍来たらず、落城されよ」という言葉が出るものとばかり思っておりましたので、強右衛門の叫びに言葉を失いました。
「ご安心なされよ~~徳川・織田の援軍、直ちに参りますぞ~~~」

一度は落城まで決意した城中のものはみんな大歓声を上げ、再び戦う気力を充実させました。強右衛門は、敵に捕らえられた時から死を覚悟していました。こうなったら命を賭して大芝居を仕掛け、味方に援軍の朗報を伝えようと決意し、見事それを成功させたのです。ただ、悲しいかな強右衛門は裏切りの見せしめとして長篠城から見える場所で磔にされ、処刑されてしまいます。

その後、長篠の戦いが始まりの織田信長が本格的に鉄砲を使用した事で、勝頼軍は壊滅的な打撃を受け家康・信長連合軍の勝利となったことは皆さんご存知の通りです。

歴史を作ったのは教科書にでてくる大人物だけではありません。
歴史の陰に強右衛門のような人物がいるからこそ、本当の「歴史」が作られるのです。
我々も自分自身の存在をちっぽけなものとして考えますが、現代史を作る一人の登場人物としてどこかで機能しているんでしょうね。