…昨日SONGS、、小沢健二登場。
オザケンワールド全開のトークに歌、、
さいこーでしたっ!!
あの頃オザケンが語っていた言葉よりも、今現在綴られる言葉の方がとっても新鮮で、オザケンを身近に感じられる。
SONGSの中で、
オザケン自身で、自身のことや考えていることを朗読するトーク場面があったのですが、
その中で、
…こどものように「間違える力」を僕も持ちたい。…
というようなことをおっしゃっていました。
その前に、オザケンは、
英語をずっと勉強しているのに、英語がまったく話せない日本人が出来上がるのは、
日本の学校の点数の付け方が、100点満点から点数を減らしていく減点法で採点されることにあるのではないか、という。
ペーパーテストはできるのに、英語の話せないのは、日本人がいざ英語を話す場面になると、(ここでなにをいうべきか、文法はあっているのか、間違ってしまわないか)という意識にとらわれ、
話すタイミングを失う、と。
オザケンはいう。
英語を話すには「間違える力」が必要だ。
英語は、単語を一ついうたびに、相手と心が通じ合う、加点法でできている、と。
海外によく出張に行く旦那に、この話をすると、
分かる気がする~!と。
マレーシアにいったとき、小学生の子供と英会話レベルが一緒だと感じたようにで、
(オレの英語は、きっと間違いだらけなんだろうな)と思ったらしい。
う~ん…
この話を聞いて思ったのが、
ちいさいころから、100点満点がもちろんよくて、(と、暗黙の了解でみんな思ってる)、花丸をたくさんもらえるのはもちろんうれしくて、
今、小1のノエルは、そうやってテストで丸をもらえるのを素直に喜んでいるけれど、、、
いつかちゃんと満点でない答案用紙に出会うこともあるし、間違えることばかりだったりもするだろう。
そのときに、間違えることを恐れるのではなく、間違えたことに対して、何かを足していけたらいいよね。
ノエルのピアノの先生が「間違ってもいいから、大丈夫だから」と声かけしながらピアノを弾かせるのだけれど、でもその裏には、できれば間違ってはいけないよ、という無言の圧みたいなものも感じていて。
やっぱり、「間違える」ことっていけないことなんだ、って思ってしまう。(きっと子供たちも無意識に)
私もそうだけど、大人になればなるほど、間違えることが恥ずかしいし、間違えることをやることは無意味のように思われる。
でも、本当は子供も大人も、大いに間違える力をもって、望まなくてはいけないこともあるのだろうと、オザケンの朗読をききながら、そんなことを感じました。
(いまさら、この年齢で…こんなことやりたいなんて…)と、やりたいことがあっても蓋をしてしまうのが大人。
私もそうだ。
きっとやりたいことがあるのに蓋をしている。間違えたくないから。
ノエルは…まだ正しいのか間違っているのか、それが良くて悪くて、恥ずかしいことなのか、よく分からない年齢だ。
存分に間違える力を発揮して、生きてほしい。
そして、私も、大人も、あれこれ頭で考えてそのときのタイミングを逃すことのないように、
結果を恐れず、間違ってもいいから、踏み出す勇気が必要なんだろう。
…SOGSで久しぶりの、「天使のシーン」を聴きました。
長い曲なのですが、その中のワンフレーズ。
聴けただけでも感動です。
それから、「愛し愛されて生きるのさ」。
この曲も、イントロからワクワクする感じが好きで、
じんわり、オザケンを堪能しましたよ。
最近、こんな風にオザケンがちょくちょくメディアに出ているからなのか、レンタルショップでも、オザケンのCDが置いてあったりするね!
私、全部もっているから(捨てなくてよかった!!)、でも今はユーチューブでいくらでも聴けるしね。
LIFEのアルバムは、何度も聴いたので、ちょっとCDおかしくなってますが、まだまだ聴けますよ。
…あの頃より、オザケンの言葉が身近に感じて染みるのは、オザケンが結婚し家庭を持ち子育てをしているパパだからかな。
子供たちの話をよく朗読でも聴かせてくれるのですが、
昔だったら、絶対にありえないし、こんなこといわないし、もっとカッコつけていただろうな、ってところが、今はまったくなくって。
昔の王子様感が減ったけど、カリスマは今も健在で、今は素直に、オザケンは文学的にも音楽的にも天才なんだな、と思います。
オザケンの歌詞には、よく「宇宙」とか「神様」とか出てくるのだけど、昨日のトークをきいていたら、それは、日本の事なのかもしれない、と思いました。
日本から世界に飛び出して、外国圏から見る日本は、とっても奇妙にうつるらしいですよ。