今回は豊臣秀吉の

側室の淀の方に注目!

淀の方は戦国時代から江戸時代初頭にかけての人物で、豊臣秀吉の側室でした。本名は浅井茶々、または浅井菊子といいます。彼女は近江国の戦国大名・浅井長政の娘で、母は織田信長の妹・お市の方です。
淀の方は、秀吉の死後、息子である豊臣秀頼の後見人として政治に介入し、豊臣氏の家政の実権を握りました。特に、関ヶ原の戦いや大坂の陣において重要な役割を果たしましたが、最終的には大坂夏の陣で敗れ、1615年に秀頼と共に自害しました。
彼女の人生は非常に波乱に富んでおり、父の死、母の再婚、そして義父と母の死によって一度歴史上から姿を消しましたが、その後豊臣秀吉の側室として再び歴史の表舞台に登場しました。淀の方は、時には悪女として描かれることもありますが、彼女の行動には「彼女なりの正義」があったとも考えられています。
また、淀の方は身長が高く、当時の女性としては168cmもあったと言われています。これは当時の平均身長よりも20cmも高い数値です。豊臣秀吉との間には、鶴松と秀頼の二人の子供がいましたが、鶴松は夭折し、秀頼は後に豊臣家の当主となりました。