先日予告したとおり、息子と一緒に、地元ミッションスクールのキャロリングに行ってきました。駅周辺3箇所で、計一時間くらいのイベントです。

小学校~高校生+保護者の有志プラス、私たちのような通りすがりまで。総勢200名超。そんな人数で駅前で歌うんですから、ある意味迷惑かも(^^ゞ。

でも、今年は概ね好意的な感じで聴いて下さっている方が多いかな、と感じました。やっぱりキャロリングは、街の人たちとのふれあい、って感じがいいですね。

いつもは普通にメロディー(ソプラノ)をガンガン歌っていたのですが、今年は息子の強い要望により、合唱譜になっている歌はアルトを歌いました。でもー、小学生の子供たちの元気な(!)地声にかき消され、全然聞こえなかったと息子は申しておりました(^^ゞ。周りの小学生からは「このオバサン、なんで違うメロディー歌ってんの? オンチ?」みたいな目も痛かったし、やっぱり来年からはまたメロディー歌おう。

ところで本題はここから。

一昨年くらいから、知っている曲なのに歌詞が違って面食らっています。

クリスマス・キャロルになっている讃美歌って、確かに歌詞は文語体でしたけど、もう長いこと歌われてスタンダードになってましたから、それで覚えている人って多いと思うんですよ。無理にわかりやすい歌詞にしなくてもいいと思うんですけど。

例えば「まきびと羊を」なんて、「ノエルを伝えた」ってかえって意味のわからない歌詞がついていて。ましてや「主イエスは生まれぬ」だったのが、「主イエスは生まれた」に。響き悪すぎませんか。確かに「生まれぬ」だと、文語の感覚がない人には否定に聞こえてしまうんでしょうが。

「天(あめ)には栄え、御神(みかみ)にあれや」 っていう歌詞だった歌は「聞け、天使の歌、御子には栄光に変わってました。

「神の御子はこよいしも」は、「いそぎ来たれ主にある民」

「ああベツレヘムよ」は、続きが「などかひとり」だったのが「ちいさなまち」になってました。

でも、そのくせ全部口語かって言うと、そうでもなかったりするから中途半端。相変わらず文語の部分は残ってるんですよね。 上の「急ぎきたれ主にある民」だって、基本文語だし。なんでわざわざあんな有名な曲の歌詞を変えてしまうんでしょうか。

わかりづらいからって、歌い継がれてきた歌詞を変えてしまうのって、やっぱり納得がいきません。聞いてる人も、聞きなれた歌詞を期待していたら、全然違う歌詞で歌われてびっくりしたんじゃないのかな? 何より、よく知ってる曲を、楽譜ナシで口ずさもうにも、まるで知らない歌詞になっているからできないんです。なんだかね…。

讃美歌に限らず、童謡なんかも歌詞を平易なものに変えていく運動があるそうですが、そんな必要があるのか、とっても疑問です。