今までの内容は、流産①から順に読んでいただからと嬉しいです。

長文となります。



2月15日夜、カロナールを2錠飲んだが、あまりお腹の痛みは緩和されず、等間隔でお腹がグーと押される感じがあり、しばらくすると、お腹の痛みが緩和するというのを繰り返していました。

やはり夜は眠れませんでした。

もがいていると起床時間の6時となり、朝から採血です。昨日の S先生の診察で、これから行う検査の結果次第で、入院生活が続くか、又は退院が出来るかどうか。

朝ご飯を食べていると、S先生が来てくれました。

お腹が痛い事を伝えると、赤ちゃんが大きくなる痛みだと言っていました。

「主人がもう少し退院を様子みたほうが良いと言ってます」と伝えると、「これ以上入院する必要がない」と S先生は言っていました。


午前中、回診がありU先生より朝の採血の結果を教えていただき、検査結果も良好だった為、退院が決まりました。

お昼を病院で食べ、14時頃主人が迎えに来てくれて帰りました。


家に着くと、入院した2月12日のままの状態で物が散乱していました。


義母は隣に住んでおり、昨年義父が急死してから、義母の介護生活が始まりました。

義母は認知症で、義母は食事の支度はしません。

義父が生きていた時、義父が身の回りの支度や食事の支度などをしていました。そのかわり、義母の家には釜があり、お風呂は薪に火を付けてお風呂のお湯を温めます。ガスも付いていますが、追い焚き機能がありません。薪風呂はお湯が柔らかく、体の芯まで温まります。

夕方になると義母はお風呂のお湯を温めようと、薪に火を付けます。これが毎日の日課です。

なので、義母は体に染みついた日課である、お風呂のお湯を温めようと釜に火を付けようとします。

何度か釜に付けた火が天上近くまで上がっていて火事になりそうな事がありました。


主人は私が入院中、自分の実家で食事の支度をし、自分の母親と子供の面倒をみていました。


今回の妊娠中、主人は、子供の面倒と、つわりがあったりで思う様に動けなくなった妊婦である私の面倒とで、認知症である自分の母親の面倒でかなり疲れてきっていました。


私は家に着くと、すぐに横になりました。

私は以前お世話になっていた漢方屋に連絡を入れ、今の状況を話し、血欠剤をいただく事にしました。ここの漢方屋さんは、その方にあった漢方を煎じてくれる所です。

電話を切ったのが18時位です。この少し前位からお腹の痛みを感じる様になります。

でも我慢出来ない程ではありません。

夜は1人でご飯を食べて、主人と子供は義母の家で食事です。

出血しているので湯船には入らず、シャワーを浴びて、身支度を整え、布団へ横になりました。

横になるとお腹の痛みを感じやすくなっていました。

22時頃、主人と子供が義母の家から帰って来て、一緒に寝ました。

しかしお腹の痛みはどんどんと痛みが増して、グーと下腹が押され、少し経つと痛みが和らぎ、この繰り返しが何度もあり、寝れる様な感じでは無く、主人にお腹をさすってもらったりしましたが、お腹の痛みは増すばかりで、トイレへ行くと出血しており、色は赤に近いサラッとした血でした。

何かおかしいと思い、退院したばかりの病院へ連絡を入れました。

張り止めと出血を抑える飲み薬がまだ残っていたので、そちらを服用して明日、朝イチで外来へ来るように指示がありました。


その後もお腹が痛すぎて寝れなく、横になっているとお腹が痛すぎるので、起き上がって歩いたりしていました。

しかしお腹が痛すぎて歩くのもキツくなっていて、「こんなにお腹が痛いのであれば、もう産みたい」と思う様になっていました。

本当に激痛でした。

主人を起こして、本当は一緒に病院へ行きたかったのですが、子供を置いては行けないと主人から言われたので、(この頃0時過ぎ頃)

カロナールをもらいに行ってもらいました。

主人が病院へ行っている間に出血の量が多くなり、生理初日位の量となってきたので、病院へ連絡を入れて、「主人が今病院へ向かってしまったので、家に帰ってきたら病院へ行きたい」と連絡を入れました。

病院から主人が帰って来てすぐ、カロナールを飲んで、今度は寝ている子供を主人が抱えて病院へ向かいました。

病院へ行く車の中で、私が痛みに耐えて呼吸が浅くなっていると、子供は「そんな呼吸だとピヨヨンちゃん(胎児名)が苦しがっている」と言われ、少し息を吐く時を長めにする様に意識しました。


そして病院へ着くき内診台へ上がりエコーを見ると、赤ちゃんは元気に動いていました。

次にお腹のエコーをやる事になりベットへ横になってエコーの機械をお腹に当て終わりしばらく横になっていると、両足の間から、大量の温かい物が出てきました。


私は子供を1人出産しているので、すぐに破水したと分かりました。


私は、気が狂ってしまい、「ピヨヨンちゃんを助けて下さい。破水しても羊水を戻す事は出来ないの?」と言っていました。

今考えれば、おかしな事を言っていましたが、

どうしてもピヨヨンちゃん(お腹の赤ちゃん)を助けたかったのです。


夜勤の先生から「落ち着いて聞いて下さい。今17週目で破水してしまうと、赤ちゃんは呼吸器系が出来上がっていないので、出てきた段階で生きられません。」と言われました。


涙が込み上げて来て、そして私の両足からはどんどんと羊水が出て来て、着て来たパジャマがあっという間に汚れてしまいました。

看護婦さんが代わりに持って来た服は、分娩服でした。入院中、お産の近いお腹の大きな妊婦さんが着ていたので、分かりました。


私の中でもうピヨヨンちゃんは助からないんだと思いました。


処置室へ移動する為、診察室を出て、主人へ抱きつき、「〇〇さんごめんね。〇〇さんごめんね。ピヨヨンちゃんはもうダメになってしまった」と言いました。(主人と年が離れている為、名前の後にさんを付けて呼んでいます)

主人は一緒に連れて来た子供が寝ているので、ロビーで待機する事となり、私は処置室のある2階へと上がりました。


数日前の入院中には、全く想像していない現実が待っていました。


処置室へ入り、台へ上がると

「もうすでに赤ちゃんの頭が出ている、少しいきむ様に」と先生に言われましたが、いきみたくありませんでした。

お腹の赤ちゃんを出したく無かったからです。


先生は、これは大切なことです。赤ちゃんを取り出すお手伝いをします。


と言って私は麻酔か痛み止めか、どちらかの点滴を受け、赤ちゃんを取り出しました。


2月17日、3時58分

出産と共に呼吸器がまだ未形成の為亡くなりました。


手術をしてくれた夜勤の先生は、私の手をずっと握り、こう言ってくれました。

「40歳代でしかも自然妊娠は凄いですね。

きっとまた次も妊娠は可能だと思いますよ。」

夜勤の先生と今回の妊娠にあたり、色々と頑張って来た事を話しました。


次回へ続きます。

もう少しお付き合いしていただけると嬉しいです。

入院中の事。

そしてこれからの事。


勇輝ちゃんが私の2人目の子として来てくれた事。勇輝ちゃんが私に命をかけて託した思い。

綴っていきたいと思います。


写真は命名は私が書きました。

火葬をする為、お花を沢山入れました。

黄色くぼやかしているのが勇輝ちゃんです。

色々とあると思いますので、ぼやかしています。