親愛なる方へ。

いつもブログを読んでくださりありがとうございます。

初めましての方も、どうぞよろしくお願いします。

お元気でお過ごしですか。

私は生粋の毒親育ちです。

結婚したのは25歳になりたてのころ。

当時はまだ「毒親」という言葉はありませんでした。

でも昭和の団塊世代の親たちは、「躾」という名で、子どもを精神的にも肉体的にも虐待して親の思い通りに育てている家庭が多かったのです。

私は自分も親と同じような子育てをしてしまうのではないか!

子どもを何人も産んだら兄弟差別、姉妹差別をして子育てをしてしまうのではないか!

親の孫欲しさのために子どもを産むのは絶対に嫌!

産んでも一生絶対にさわらせない!

でも、5年経ったある日思ったんですね。

このとてもひどい毒親の連鎖を私の代で断ち切ることはできないだろうか?

子育てを自分の力だけではできないし、親に頼ることもできないけれど、私が働き続けて子どもを保育園に預ければ子育ての助けを借りられる。

そう決意して、子どもは一人だけ産みました。

そして生後2か月で保育園に預けました。

夫が普通親育ちで子煩悩の人だったので、夫婦&保育園で子育てできました。

毒親、舅姑には、さわらせませんでした。

でも2人目は、経済的な事情と、あとどうしても兄弟差別、姉妹差別をしてしまうことが怖くて産めませんでした。

子育てをしていく中で、自分が毒親からされてきた酷い仕打ちを度ある毎に思い出し、怒りがこみ上げて仕方がありませんでした。

まだ生きている毒父は、孫にもひどい過干渉、束縛、支配をして、とうとう大学の入学式に呼んでもいないのに乱入し、暴れて式典を中断させたり、大切な記念日をぐちゃぐちゃにして、完全に孫から嫌われ、疎遠になりました。

毒父はアポなしで自宅や職場にきては、こんなに世話をしてやっている、金を出してやっている、という恩着せがましさと、妻を早くに亡くし、一人暮らしをしている寂しさを紛らわすために、共依存の関係でした。

だから、自分の子どもと家庭を守るために、自分の心が永遠に支配されないために、毒父とは絶縁しました。

その数年後、毒父は脳出血で倒れてしまい、要支援になりました。

地域包括支援センターには、愛玩子の妹が繋いでくれました。

でも、私は病院の保証人を断り、見舞いにも行かず、生活介助もせず、今後の介護も、葬儀も、一切の関りを持たないと決めました。

毒父と私との関係はもう終わったのです。

姉妹全員、毒父の介護はしない、自力で生活出来なくなったら、老人介護施設に入れる!と決めています。

老後は子育ての通知表。

独居で誰も子どもは来ず、威張れる会社の部下も、愚痴を言い合える友達もおらず、独り寂しい老後を送ってください。

あと、よく毒親に恨みの絶縁状を送ったり、暴言を吐きに行ったりする人がいますが、そもそも毒親は自分を毒親とは認めていないし、自分は正しいことをして生きてきた!と思っているから、関わるだけ無駄、自分が余計に傷つくだけだから、辞めておいた方がいいです。

毒父があと何年生きるつもりなのかは知りませんが、葬儀にもでないし、骨を拾うつもりもありません。

相続放棄することで、家族じまいしたいと思います。

それではまた更新します。

最後まで読んでいただきありがとうございました。