デュシャン展に行きました♪:レディメイド
エミリオ、今日は国立国際美術館までデュシャン展に行きました。ここの近くのホテルで一時仕事をしていたのですがその頃はまだこの美術館は建設中で、早く出来上がりがみたいなーと思ったものです。ようやく完成し開館記念に「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」をすると知り、エミリオどうしても見に行きたかったのだけどなかなか時間が取れず、今日ようやく行けて大喜びでした。なんといってもこのブログのタイトルは「デュシャンの子供達」ですからね。その意味もおいおい説明するとしましょう。
国立国際美術館は新しくて綺麗で見やすいようにいろいろ工夫されていて、映画館もあるし、カテゴリーがどんどん広がり多様化していく現代美術の表現と連動して様々な「見せ方」や「用途」を考慮した空間作りを感じました。迷路のような古い美術館も好きですけどね♪新しいものは新しいで悪くないです。建物のセンスばかり鼻息荒く機能美が乏しいどこかの建物よりは断然よろしい♪
わたしは大学の時もっとも傾倒したアーティストの1人がマルセル・デュシャンで「あーもうみんな先にやられちゃったなぁ」という悔しさを1900年代初頭の魅力溢れる時代を羨ましく、あの頃あの時代に生まれたかったと思ったものです。美術の歴史を塗り替えた、20世紀美術を花開いた立役者の1人がデュシャンだと言えます。彼の作品の一番凄い所は「描けなくてもアーティストになれる」という事。つまり誰でもアーティストになれる時代を花開かせたと言っても過言ではないでしょう。本当の意味でアートかどうかは別として・・・ですけど。
このブログはウチュウジンの紹介も兼ねてますので、結論からいいますとデュシャンはウチュウジンです。はい、ウチュウジンで天才。今から100年近くも前にですよ、今の時代にやっても白い目で見られたりビックリされるようなことを彼は次から次へとやってのけ、しかも評価されたわけですから凄いことだなぁと思うのです。
直接見て確認できたことはやっぱりデュシャンってあんまり絵が上手くない。結構雑なんですよね。いや、普通の人よりはうんとうんと上手なんですよ、でも彼の時代にはなんといってもピカソやダリやマティスや本当に巧い天才がいっぱいいたわけですから。多分、私の印象では、デュシャンは飛び切りの素敵なウチュウジンだったので、多分真面目な画家達の中で特別オシャレで特別小粋な存在だったんじゃないかなぁと思うのです。彼が何か面白い遊びをはじめると仲間達は夢中になってしまうとか、デュシャンがいたら断然楽しいし、みんな芸術論を朝まで熱く語ったりしてたんじゃないかなと。デュシャンは不思議な魅力のある人だったと思うのです。
それで彼はみんなに愛されアイディアの面白さでは誰よりもリーダー格だけど、絵の巧さはそうでもない。その二つの特性と時代に要請された「既成概念の打破」という使命が彼にレディメイドを作らせたのではないでしょうか。
レディメイドは既製品に署名をしただけ、という、いわば芸術を小ばかにしたような、一石投じた確信犯です。ですからレディメイドの作品は幾つ見ても、本体そのものは大量生産されたモノに過ぎませんから、九十九神にでもなっていない限り、迫ってくるものが何もないのです。ツクモガミは少なくとも相当古くならないと神様にはならないようなので、さほど年数もたたない既製品では何かが中に入っている可能性は少ないでしょうし、少なくともそれは芸術家の魂とはいいがたい。だからこそデュシャンはレディメイドを選んだのでしょうしね。
私達のような感覚を持った人間(ウチュウジンも、人間だもの)から見れば、魂の入ったアートは、迫ってくるのです。もっと見える人だと抜け出して歩き回るそうですけどね(笑)エミリオレベルでは、せいぜい、魂というかオーラが遠くからでもぬぉぉぉぉっとほとばしっているのでそういう作品を見つけると釘付けになります。そして見詰め合って暫く「お話」します。今回では別の場所にあった3枚のピカソのうち一番時代の新しいものがそうでした。あっちにはいいのなさそうだなーとエスカレーター登ってる途中で、」なんか視線を感じるのでちょっと覗いて見たら目が合ったのでもう一度降りて見に行きました。とてもいい子でした。
といった感じで絵とは対話が成立します。絵に限らず良い作品の中には、「魂」を持つものがいるので、更に鑑賞され大切に扱われれ、大勢の目に見つめられ、魂は育っていくことがあるのです。贋作でも「魂」が入るということはあるかもしれませんし、ホンモノでも魂のカケラも感じないものもあります。こればっかりは鑑定結果とか美術的価値と必ずしも一致するとは限らないのですが、デュシャンのレディメイドの殆どはそういう意味では「何も感じない」のです。レディメイドも見つめられ続けることで「魂」を獲得できるかどうかが今回私にとってとても気になっていた事だったのですが、今となってはもう天井から何かをぶら下げた所で誰も驚きませんから、レディメイドはアートではあってもアートの魂は入らないのかもしれません。
何が私が驚いたかというとレディメイドのコーナーでは列が出来更に混雑していたことです。レディメイドはアートとしてその精神には偉大な価値がありますが作品としては空っぽなので、長時間鑑賞する何があるというのか、私は不思議でしたがやがてわかりました。タイトルや解説を読んで作品の「解釈」をしたり「意味」を探そうとみんなしていたのです。あぁなるほど。人はそれが美術品ですよと言われると、しかも飛び切りすばらしいと言われるとなんとか「理解しよう」とするのだ、そして自分の観念の世界でなんとか理解しようと一生懸命なのだ、人間てなんて面白くてすばらしいんだろうと、エミリオは思いました。もしデュシャンが生きていたらさぞかしニヤニヤしたのだろうなぁ。いや、エミリオ、鑑賞する人々を観察できてこそ、レディメイドの展示を見に行ったかいがあったと思いました。デュシャンのいう「観客がいて完成する」を実感できました。こうやって何年も見つめられ、大勢の人がこれは芸術品だといい続け、信じ続けることで彼らはまさしく芸術品になっていく。
矛盾するふたつの感覚の中で、もし100年後同じ自転車の車輪を見たらどうなっているのか知りたい気がします。
気が向いたらまた続き書きます。
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国立国際美術館は新しくて綺麗で見やすいようにいろいろ工夫されていて、映画館もあるし、カテゴリーがどんどん広がり多様化していく現代美術の表現と連動して様々な「見せ方」や「用途」を考慮した空間作りを感じました。迷路のような古い美術館も好きですけどね♪新しいものは新しいで悪くないです。建物のセンスばかり鼻息荒く機能美が乏しいどこかの建物よりは断然よろしい♪
わたしは大学の時もっとも傾倒したアーティストの1人がマルセル・デュシャンで「あーもうみんな先にやられちゃったなぁ」という悔しさを1900年代初頭の魅力溢れる時代を羨ましく、あの頃あの時代に生まれたかったと思ったものです。美術の歴史を塗り替えた、20世紀美術を花開いた立役者の1人がデュシャンだと言えます。彼の作品の一番凄い所は「描けなくてもアーティストになれる」という事。つまり誰でもアーティストになれる時代を花開かせたと言っても過言ではないでしょう。本当の意味でアートかどうかは別として・・・ですけど。
このブログはウチュウジンの紹介も兼ねてますので、結論からいいますとデュシャンはウチュウジンです。はい、ウチュウジンで天才。今から100年近くも前にですよ、今の時代にやっても白い目で見られたりビックリされるようなことを彼は次から次へとやってのけ、しかも評価されたわけですから凄いことだなぁと思うのです。
直接見て確認できたことはやっぱりデュシャンってあんまり絵が上手くない。結構雑なんですよね。いや、普通の人よりはうんとうんと上手なんですよ、でも彼の時代にはなんといってもピカソやダリやマティスや本当に巧い天才がいっぱいいたわけですから。多分、私の印象では、デュシャンは飛び切りの素敵なウチュウジンだったので、多分真面目な画家達の中で特別オシャレで特別小粋な存在だったんじゃないかなぁと思うのです。彼が何か面白い遊びをはじめると仲間達は夢中になってしまうとか、デュシャンがいたら断然楽しいし、みんな芸術論を朝まで熱く語ったりしてたんじゃないかなと。デュシャンは不思議な魅力のある人だったと思うのです。
それで彼はみんなに愛されアイディアの面白さでは誰よりもリーダー格だけど、絵の巧さはそうでもない。その二つの特性と時代に要請された「既成概念の打破」という使命が彼にレディメイドを作らせたのではないでしょうか。
レディメイドは既製品に署名をしただけ、という、いわば芸術を小ばかにしたような、一石投じた確信犯です。ですからレディメイドの作品は幾つ見ても、本体そのものは大量生産されたモノに過ぎませんから、九十九神にでもなっていない限り、迫ってくるものが何もないのです。ツクモガミは少なくとも相当古くならないと神様にはならないようなので、さほど年数もたたない既製品では何かが中に入っている可能性は少ないでしょうし、少なくともそれは芸術家の魂とはいいがたい。だからこそデュシャンはレディメイドを選んだのでしょうしね。
私達のような感覚を持った人間(ウチュウジンも、人間だもの)から見れば、魂の入ったアートは、迫ってくるのです。もっと見える人だと抜け出して歩き回るそうですけどね(笑)エミリオレベルでは、せいぜい、魂というかオーラが遠くからでもぬぉぉぉぉっとほとばしっているのでそういう作品を見つけると釘付けになります。そして見詰め合って暫く「お話」します。今回では別の場所にあった3枚のピカソのうち一番時代の新しいものがそうでした。あっちにはいいのなさそうだなーとエスカレーター登ってる途中で、」なんか視線を感じるのでちょっと覗いて見たら目が合ったのでもう一度降りて見に行きました。とてもいい子でした。
といった感じで絵とは対話が成立します。絵に限らず良い作品の中には、「魂」を持つものがいるので、更に鑑賞され大切に扱われれ、大勢の目に見つめられ、魂は育っていくことがあるのです。贋作でも「魂」が入るということはあるかもしれませんし、ホンモノでも魂のカケラも感じないものもあります。こればっかりは鑑定結果とか美術的価値と必ずしも一致するとは限らないのですが、デュシャンのレディメイドの殆どはそういう意味では「何も感じない」のです。レディメイドも見つめられ続けることで「魂」を獲得できるかどうかが今回私にとってとても気になっていた事だったのですが、今となってはもう天井から何かをぶら下げた所で誰も驚きませんから、レディメイドはアートではあってもアートの魂は入らないのかもしれません。
何が私が驚いたかというとレディメイドのコーナーでは列が出来更に混雑していたことです。レディメイドはアートとしてその精神には偉大な価値がありますが作品としては空っぽなので、長時間鑑賞する何があるというのか、私は不思議でしたがやがてわかりました。タイトルや解説を読んで作品の「解釈」をしたり「意味」を探そうとみんなしていたのです。あぁなるほど。人はそれが美術品ですよと言われると、しかも飛び切りすばらしいと言われるとなんとか「理解しよう」とするのだ、そして自分の観念の世界でなんとか理解しようと一生懸命なのだ、人間てなんて面白くてすばらしいんだろうと、エミリオは思いました。もしデュシャンが生きていたらさぞかしニヤニヤしたのだろうなぁ。いや、エミリオ、鑑賞する人々を観察できてこそ、レディメイドの展示を見に行ったかいがあったと思いました。デュシャンのいう「観客がいて完成する」を実感できました。こうやって何年も見つめられ、大勢の人がこれは芸術品だといい続け、信じ続けることで彼らはまさしく芸術品になっていく。
矛盾するふたつの感覚の中で、もし100年後同じ自転車の車輪を見たらどうなっているのか知りたい気がします。
気が向いたらまた続き書きます。
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