わたしとニンジンの違い | デュシャンの子供たち

わたしとニンジンの違い

小学校低学年ぐらいだったでしょうか。
おっそろしくまずい給食を食べていた時のことです。
うちの学校の給食はおっそろしくまずく、献立のセンスも
最悪でした。ごはんと牛乳とか、パンと春雨中華風とか、
栄養のバランスがたとえよかったとしてもこのメニューを
作ってる人は一体どんな味覚のセンスをしているのだろうと
毎日とても驚いていました。そして当然残してしまうのでした。

いや、これは余談なのです、ここからが本題。
そのおっそろしくまずい(何度も言いたくなるねんっ)
給食を食べていた時にハタと気づきました。

食べ物をこの気持ちの悪い歯とかいう、器官を使って細かくし
胃に送り、更に不気味な消化活動をしてもっと気持ちの悪い
ペーストを作り栄養を吸収するのだなぁ。
うわぁ気持ちの悪いセンスの悪いシステムだなぁ。

あれ?食べ物も命だよね?生きてるんだよね。
わたしたちは他の生き物の命を奪って生きてるんだよね。
なんて嫌なシステムなんだろう。
でも食べなきゃ死んでしまうものね。
他の命をもらって生き続けている訳だけど
じゃあ、食べたモノの命はいつから私の命に変わるの?

人生最初のでっかい謎に遭遇した瞬間。

にんじんは食べるまではにんじんの姿をしてるし
にんじんの心を持っている。にんじんにだって心はあるし
野心はないかもしれないけど、気持ちはある。
食べられることに対して、牛や豚ほど悲しまないにせよ
「食べられるのだな」ということぐらいちゃんと知っている。
にんじんが何も言わないのじゃない、
その声を聞く力がこちらにないだけで
傲慢な勘違いをしてはいけないんだ。
にんじんにも命があり、心がある。

ではどこら辺からにんじんはその命が消え、わたしになるの?
それとも単に栄養だけ吸い取って命はどこか別の所にいくの?

その疑問はオトナになってから
もっとずっと深い意味を持ち始める。

そして子供だった私にはひとつの確信がありました。
確信を確認していくためにオトナになってもずっと
この疑問と私は付き合うことになります。

命をもらったらその命の影響を受けると。
命に限らず影響を受けるのだ。
命ならなおさらだ。
彼らの生きるはずだった命を受け継ぐ使命が
食べた側にはあるのだ。
特別使命感があるわけではないけれど
食べることと引き換えに命を受け継いでいるのだ。
多くの命を混ぜ合わせてひとつの生命を形作るのだ。

食べることで取り込む命は
食べられた側はその意識を失うが
その心は栄養と一緒に吸収される。

これが地球のルールです。

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