嫉妬は、愛とはなんのかかわりもない | デュシャンの子供たち

嫉妬は、愛とはなんのかかわりもない

こんなメールがわたしの元に届きました。
ウチュウジンはこういう話に弱いです、安心します。

以下、転載。

嫉妬は、愛とはなんのかかわりもない

 Osho,どうして嫉妬は影のように愛につきまとうのでしょうか?

 嫉妬は、愛とはなんのかかわりもない。実際のところ、あなたがいわゆる
愛と呼んでいるものも愛とはなんのかかわりもない。その意味も知らず、そ
の意味を経験しないままあなたが使う美しいことばがある。
 あなたは「愛」ということばを使いつづける。あなたはあまりにも愛と
いうことばを使っているので、愛をまだ経験したことがないという事実を
忘れてしまっている。これがそのような美しいことばを使うことの危険性の
ひとつだ。

 「神」「愛」「涅槃」(ニルヴァーナ)「祈り」……美しいことばだ。
 あなたはこういったことばを使いつづける。あなたはこれらをくり返し
つづける。そしてそのくり返すということで、やがて、あなたはまるで自分が
それを知っているかのように感じる。あなたは愛についてなにを知っていると
いうのかね。もしあなたが愛についてなにかを知っているなら、このような
質問をたずねることはできない。なぜなら、嫉妬は愛のなかにはけっして存在
しないからだ。そして、嫉妬があるところに愛は存在しない。
 嫉妬は愛の一部ではない。嫉妬は所有欲の一部だ。所有欲は愛とはなんの
かかわりもない。あなたは所有したい。所有することであなたは強くなった
気がする。あなたの領域が大きくなる。そして、もし誰かほかの人があなたの
領域に侵入しようとするとあなたは怒る。あるいは、もし誰かがあなたの家
よりも大きな家を持っているとあなたは嫉妬する。誰かがあなたの財産を奪
おうとすると、あなたは嫉妬して怒る。もしあなたが愛するなら、嫉妬は
不可能だ。まったく不可能だ。

 聞いた話だが……
 極寒のユーコン州で、ふたりの猟師が最後の居留地に立ち寄って、長い
暗い冬に備えて生活必需品を手に入れようとしていた。彼らは小麦粉、カン
ズメの食品、ケロシン、マッチそして弾薬などを橇に積込み、荒野のなかを
6か月間犬橇で雪原旅行する準備を整えた。
 「ちょと待ちな」と店主が彼らを呼び止めた。「これらのなかからひとつ
持っていかないかい」と言うと、店主は砂時計のような曲線の大きな板を
彼らに見せた。
 「これはなんだい」と猟師のひとりが尋ねた。
 店主はウィンクした。「これは愛の板と呼ばれているものさ。淋し
なったらこれを抱けばいい」
 「ふたつくれ」と男たちが叫んだ。
 6か月後、猟師のひとりが、顎髭をのばし、やつれて戻ってきた。
 「相棒はどうした?」と店主が尋ねた。
 「あいつを射たなければならなかったんだ」とその猟師はつぶやいた。
 「俺のラブボードといちゃついているところを捕まえたのさ」

 嫉妬は、愛とはなんのかかわりもない。もしあなたが女性を愛している
なら、どうして嫉妬することなどできる? もしあなたが男性を愛している
なら、どうして嫉妬することなどできる? もしあなたの女性が誰かほかの
人と笑っているなら、どうしてあなたは嫉妬できる? あなたはうれしい
はずだ。あなたの女性が幸せなのだ。彼女の幸せは、あなたの幸せだ。どう
して彼女の幸せに反することなど考えられる?
 だが見るがいい。注意して見るがいい。
 あなたたちはこの話を笑った。だが同じことが、あらゆるところで、
どこの家庭でも起っている。

 妻はもし、夫が新聞をあまり読みつづけていると、その新聞に対して
さえ嫉妬するようになる。彼女はやってきて新聞をひったくる。彼女は
嫉妬してしまっている。新聞が彼女にとって代ったからだ。彼女がいる
あいだ、あなたはどうして新聞を読むことなどできる? それは侮辱だ!
 彼女がそこにいるあいだは、彼女に完全に所有されていなければならない。
新聞さえも許されない。新聞が競争相手となる。
 そうなると、それが人間ならどうなる? もし妻がいて、夫がほかの
女性と話しはじめ、少しでも幸せそうに見えようものなら。しかしそれは
自然なことだ。人びとはお互い疲れている。なにか新しいことがあれば、
少しスリルを感じる。すると妻が怒る。もしカップルが通りすぎて、男が
悲しそうだったら、彼はその女性と結婚した夫だとすぐにわかる。もし幸せ
そうなら、彼はその女性と結婚していない。彼女は彼の夫ではない。

 私が汽車で旅していたときのことだが、同じ客室にひとりの女性がいた。
ひと駅ごとにひとりの男がやってきた。あるときはバナナを持ってきて、
ある時にはお茶とか、アイスクリームとか、あれやこれやを持ってきた。
 私は彼女に尋ねた。「この男は誰だね?」
 彼女は言った。「私の夫です」
 私は言った。「信用できないね。それは信じられない。結婚して何年たつ
のかね」彼女はちょっと困った顔をした。
 彼女は言った。「私たちは結婚していません。でもどうしてわかったので
すか?」
 私は言った。「私はひと駅ごとにやってくる夫など見たことがない。ひと
たび夫が妻から解放されれば、彼は妻がどこか途中で降りてくれればいいのに
と思いながら、最後の駅でやっと客室に入ってくるだろう。ひと駅ごとにあれ
やこれや、いろんなものを持ってきて、何度も何度も自分の客室からかけつけ
てくることなど……」
 彼女は言った。「あなたのおっしゃるとおりです。彼は夫ではありません。
彼は私の夫の友人です」
 なるほど。それなら問題ない。

 あなたは自分の女、自分の男、あるいは自分の友人をほんとうに愛している
わけではない。あなたが愛しているなら、彼あるいは彼女の幸せはあなたの
幸せだ。もしあなたが愛しているなら、あなたはどんな所有もつくりださない。

  愛は全面的な自由を与えることができる。愛のみが全面的な自由を与える
ことができる。そして自由が与えられないなら、それはなにかほかのものだ。
愛ではない。それはなにかある種のエゴイスティックなトリップだ。
 あなたは美しい女性を所有している。あなたは町じゅうのあらゆる人に、
自分が美しい女性を所有していることを見せたい。まるで彼女が自分の所有物
であるかのように。
 ちょうど車を持っていて、その車に乗っているときのように、誰も自分の
ような美しい車を持っていないということを、みんなに知ってもらいたい。
 同じことがあなたの女性についても言える。あなたは彼女にダイヤモンドを
身につけさせる。しかしそれは愛からではない。彼女はあなたのエゴの飾りだ。
 あなたは彼女をあるクラブから別のクラブへと連れ歩く。しかし、彼女は
あなたにしがみついたままでいなければならない。自分があなたのものだと
いうことを見せつづけなければならない。少しでもあなたの権利が侵害される
と、あなたは怒る。その女性を殺しかねない。あなたが愛していると思って
いるその人を。
 いたるところに働いてる大きなエゴがある。私たちは人びとが物である
ことを望んでいる。人を物のように所有し、人を物におとしめている。
 物に対する態度についても、同じことが言える。

 聞いた話だが……
 ラビと牧師が隣り合わせに住んでいた。そして彼らの間にはちょっとした
競争があった。

 ある日牧師が新しいジャガーを手に入れた。するとラビはベンツを買った。
ラビが窓から外を見ると、その牧師が車のボンネットの先に水を注いでいるの
が見えた。彼は窓を開けて叫んだ。「それはラジエーターに水を入れるやり方
ではないぞ。知っているのか」
 「ああ」とその牧師が答えた。「私は聖なる水でこれを洗礼しているのさ。
これはあんたができるようなものではないよ」しばらくしてその牧師が振り
返ると、ラビが道路にあおむけになっていた。手にのこぎりを持ち、自分の
車の排気管の先を1インチのこぎりで切っていた。

 これがマインドだ。絶えず競争している。こんどはラビが割礼をほどこし
ている。彼はなにかしなければならない。それが私たちが生きているやり方だ。
エゴのやり方だ。エゴはどんな愛も知らない。どんな友情も知らない。どんな
慈悲も知らない。エゴは攻撃であり、暴力だ。
 そしてあなたは尋ねる。
 どうして嫉妬は影のように愛につきまとうのですか? と。
 けっしてそのようなことはない。愛はなんの影もつくらない。愛は固体では
ない。愛は透明だ。どんな影も愛から作り出されることはない。愛はこの地上で
どんな影もつくりだすことのない唯一の現象だ。


The Tantra Vision,Vol 2.より訳出。邦訳書としては『タントラの変容』市民出版
社刊

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