夏至ですね、暦の大きな節目のひとつですが、わたし自身は、今月6月初め頃からさらなる波動の上昇を感じていて、特に今回は眉間にあるサードアイを通じてたくさんの光を受け取っていました。それが数日間続いて、今はそれほど意識しなくなりましたが、この光は地球上のすべての人に降り注がれていると思います。

 

 

インドは今よく聞かれる、マッドフラッドやタルタリアなどの説に興味を持っている人には、その印象が色濃く残る景色が温存されている国の一つではないかと思うのだけれども、わたしが大好きでよく訪れている南インドのタミルナドゥ州だけでも、世界遺産などに指定されていない建造物は山ほどあるのだが、それは地域の人たちと今なお共鳴しながら共に暮らしている。

 

 

寺院の建物は、遠く山の頂からも美しくみえるように設計されているかのように、マントラのような正確性を持って建てられており、その建物の、東西南北の入り口にもなる塔は天空を目指して何十メートルの高さにもなる。その壁面の全てには神々が彫られている。

 

 

南インド、シヴァ神の聖地チダムバラムのナタラージャ寺院の寺院内も、これはいつ頃作られたものなのだろうかというような、石づくりで、石柱が張り巡らされている。

 

寺院内での神事に合わせ鳴らされる鐘の音は、音波のように鳴り響いて、それは、それは、癒されます。この音による音波はとても健康にいいのだと思う、自身の細胞を正しく整列させてくれるかのようです。

 

寺院の秘密はこのようにしてある。そのようにして寺院の建造様式は、本当の意味で時というものを忘れさせ、超越した意識に触れられる空間を保っている。この言いようのない雰囲気はそれぞれの国ごとに様式は違っていても、その様式美や宗教的な教義によって人々の内的側面を刺激し、浸透している。それが正しいか、違っているかは別として、純粋にそれらを残そうとした努力が今なおわたしたちを寺院という場所に惹きつけているのかもしれないのだ。神域というフィールドに。

 

本当のことはわからないけれども、それを残そうとしてきた努力は、見えない世界の働きの方が強かったのではないのかな・・・。と一人思う。

 

 

今、用もなく海外に出かける人は少ないと思うのだけれども、よくわからない検査を受けなければ出かけられず、入国、出国の際の国ごとのルールはどこまで共通ルールが周知されているかの不安も大きいと思われることから、わたし個人はまだ海外へ出かけることが難しいんじゃないかなと思ったりするのだ。

 

コロナ禍が始まる三か月程前、わたしは、彼とともになぜかせかされるようにインドを訪れ、その後二〇二〇年春にはエジプトも訪れた。最後のエジプト旅では、今度はいつこの地に戻って来れるのだろうかとも感じた。

 

 

わたしの彼はインドに出かける前日の夜、ラーマリンガ・スワミの幻影を見ていたようだ。彼は「ラーマリンガ・スワミが迎えに来た」と話していました。

 

わたしはわたしで、ラーマリンガ・スワミという聖者の姿を知らなかったが、無意識にインドに入国してすぐ、頭に白いスカーフを巻き、長衣を着用したりしてしまい、それはほとんどラーマリンガ・スワミの恰好を真似て見せているような振る舞いだったのです。

 

ラーマリンガ・スワミはシヴァ神を超えるものがあると思っていたようで、仏陀の後継者的な存在であるとも言われているようだが、その辺りはわたしにはよくわからない。

 

ただ、皆の中にいて、自ら神聖の表現者であり、体現者であったと思う。自我とか、お金、物質を超えたものを感じさせてくれていた、そんな気配を今も感じる。

 

 

 

ラーマリンガ・スワミが晩年を過ごした地として知られる、南インド、ヴァダロール近郊メットゥクッパム村にあるシッディワラガ寺院は、田舎で殆ど外国人もいないけれど、現地のインド人達は、皆スマホを持っているのでカチャカチャカチャカチャみんなやっている。

 

神様の前でみんな記念撮影だ。どこも同じだ。そういうのがないからインドが好きだったというのは多分にあるのだが、そうであってもわたしにとってはインドは魅力のある国だ。デリーは都会で全然違うが。貧富の差が激しすぎる。

 

 

インドは沢山の覚者を生み出してきている。それはインドというフィールドがそれに適しているからなのだろう、論理的な思考を超えた世界観がそこにはある。そこには感覚的なものや、感情が優位性を持つ世界観があるような気がする。

 

論理的な思考が必ずしも優位性を持って語られるということがない世界が、一つの寿命という時間で区切られていない、大きな流れとしてそれはある。

 

 

それは一人ひとりの心の中に感じられているものと極めて近い、同じものなのだと思う。なんとなく、でもやっぱり違う。いややっぱり本当だ、という感じをもってそれを感じることが出来る、それが人間の素晴らしさで、超越した、論理を超えたものなんじゃないかとも思えてしまう今日この頃なのです。
 

聖地メットゥクッパム村のシッディワラガ寺院 2019.12撮影