5月3日 和歌山観光きっぷ 南海電車撮影記① | ウォーリーのブログ

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5月3日(金)憲法記念日。今年のGWは、4日と6日は、仕事ですので、休みは3日と5日の日曜日の2日間だけです。3日(金)は、天気が大変良い、晴れでしたので、昨年と同じく、南海電鉄のお得なきっぷ、「和歌山観光きっぷ」を利用して、和歌山城、紀州東照宮へ行って来ました。

「和歌山観光きっぷ」は、難波駅発は、2080円ですが、特急サザン往復座席指定券付きが、2600円ですので、ロングシート車の自由席より、絶対にお得ですので、指定席券付きを購入しました。9時10分発の座席指定を予約しましたので、1時間程、今宮戎駅で、撮り鉄しました。

特急「ラピートβ」・なんば行 50000系(MOBラピートラッピング車)

MOBラピート スイスのモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道(MOB)とのコラボ企画としたラッピング車両。MOB展望列車「ゴールデンパス・エクスプレス」をデザインしたラッピング

準急・泉北中央行 泉北高速3000系 準急・なんば行 6000系

6000系 1962年に登場し運用開始した4ドアオールステンレンス車体の車両で、東急7000系同様に東急車輌がバッド社のライセンス供与を受けて開発された車両で、制御方式は抵抗制御です。

普通・なんば行(羽倉崎発)2000系

急行・なんば行(三日市町発)6200系

特急「泉北ライナー」・なんば行

急行・なんば行(橋本発)6000系6023F

特急「りんかん」・なんば行 31000系

1時間程、今宮戎駅で撮り鉄した後、新今宮駅から、予約した特急「サザン」に乗車して、和歌山城、紀州東照宮を観光しました。

和歌山城 天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が、弟の秀長に命じて、岡山(虎伏山)の峰に築城させたのが始まりで、築城を担当した家臣の一人が、後に築城の名人と言われる、藤堂高虎です。同年、秀長の城代として、桑山重晴が入り、秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となり、豊臣、桑山時代に山嶺分や岡口の整備が行われました。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い後、浅野幸長が入城すると、黒板張りの連立式天守を建て、現在の二の丸・西の丸に屋敷を造営し、居城として整備を進めました。又、大手も岡口から、一の橋に変え、大手筋を基軸とする、正方位の町割りで、城下町の形が造られました。

元和5年(1619)、徳川家康の10男、頼宣が入城し、55万5千石の御三家の1つ紀州徳川家が成立し、二の丸西部・砂の丸・南の丸を増築し、ほぼ現在の和歌山城の姿となりました。

城のシンボルである、連立式天守は、寛政10年(1798)に黒板張りから、白壁に外観が一新されますが、弘化3年(1846)に落雷で焼失。その4年後に再建された2代目の天守閣も、昭和20年(1945)に空襲で再び焼失して、現在の天守閣は、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造りで再建された3代目です。

紀州東照宮 元和7年(1621)、紀州藩主・徳川頼宣公が父家康公を祀るために創建した権現造の神社。日光東照宮と同様、絢爛豪華な社殿周囲には、左甚五郎作の彫刻や狩野探幽の壁画がある。朱塗の楼門をはじめ、拝殿・本殿など7棟が国の重要文化財に指定。和歌祭のひとつ神與渡御[みこしとぎょ]が行われ、神輿をかついだ男衆が108段の階段を勇壮に練り下り、1000人の行列が続く。

不老橋 紀州藩10代藩主、徳川治宝が、徳川家康を祀る東照宮の例大祭「和歌祭」の時に、徳川家や東照宮の人々が通る御成道として、嘉永4年(1851)に不老橋を架け整備した。橋のアーチ部分は肥後熊本の石工が作り、雲の浮き彫りが有る勾欄(手摺り)部分は紀州湯浅の石工石屋忠兵衞が作ったという。

江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では、大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れています。

 

和歌山城、紀州東照宮、不老橋を見学すると、バスで和歌山市駅に戻り、帰りも、特急「サザン」の座席指定席を利用して、帰りました。途中、新今宮駅で降り、再び、今宮戎駅で撮り鉄をします。