「山陰めぐりパス」の旅⑧ 津和野市内観光・SLやまぐち号を撮る | ウォーリーのブログ

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「山陰めぐりパス」の旅から、大分経ちましたが、916日午後、山口線津和野大橋で、SLやまぐち号を撮影すると、再び市内観光に。15分程歩いて、津和野城跡へと向いました。
 
津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる、霊亀山に築かれた山城で、築城時からは少なくても室町時代後期までは三本松城と呼ばれていました。
江戸時代には津和野藩亀井氏の居城で、藩庁は急峻な山城を避け山麓に置かれました。
明治時代に廃城となり、山上には石垣や堀が残り、山麓には馬場先櫓、物見櫓が現存しています。
津和野へは、2015年元日に、「JR西日本元日乗り放題きっぷ」を利用して訪れ、津和野城へ行きましたが、当時は雪。今回は雨と天候に恵まれず、リフトに乗っての山上へは行けず、今回も山麓の櫓だけの見学と成りました。
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馬場先櫓 旧津和野藩邸表門の左方の角地に配置された隅櫓で、南西に馬場が有ったのでこの名が付けられました。建築年代について、記録は有りませんが、藩邸が6年(1856)の大火で焼失し、安政3年(1856)に再建されている事から、この櫓も安政年間の建築と思われます。旧津和野藩邸の建物で現在残っているのは、この櫓と物見櫓の二棟が有りますが、元の位置を変えずに旧状を留めている唯一の建物と成って居ます。
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物見櫓 津和野藩御殿の正面側には、東門を中心として御物見の他、四つの櫓と大小四つの土蔵が有りました。物見櫓は、絵図では御物見と記され、防衛上最も重要な設備で有りました。
元は、現在の、津和野高校の正門付近に有りましたが、大正時代の道路の新設により、嘉楽園の敷地内に移されました。
 
津和野は、明治大正の文豪、森鴎外が生まれた場所でも有ります。津和野城山麓の櫓から20分程歩いて、森鴎外旧宅へと向いました。
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森鴎外は、文久2年(1862119日、この旧宅で生まれ、明治5年(1872)に10才で上京するまで此処で過ごしました。
鴎外は、軍医総監陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼図書頭となる一方、文学者としても活躍し、明治大正を代表する文豪として、夏目漱石と並び称されています。
旧宅は、嘉永6年(1854)に発生した大火の後に建てられたものと伝えられ、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されましたが、昭和29年(1954)、鴎外三十三回忌を機に、町へ寄付され、此の場所へ戻されました。その後、昭和60年に大規模な保存修復を行い現在に到っています。

森鴎外旧宅での見学を終えると、時刻は14時過ぎ。列車の時間も有りますので、津和野駅へと戻りました。
駅の前を通過して、津和野駅構内に有る転車台へ向うと、SLやまぐち号牽引機である、C57-1号機である「貴婦人」が上り新山口行きに備えて準備していました。