「鉄道の日・西日本乗り放題きっぷ」で行く、【歴史散策】福知山城 | ウォーリーのブログ

ウォーリーのブログ

ブログの説明を入力します。

1012日(祝)、「鉄道の日・西日本乗り放題きっぷ」を使って、丹波路、福知山~舞鶴へと出掛けて来ました。
今回の旅の目的は、今月で引退する、JR西日本の、381系・山陰特急の乗車と、丹波国の城下町、福知山城の訪問。
戦後70年。先月28日にリニューアルオープンし、又、世界記憶遺産に登録された、舞鶴、引揚げ記念館の訪問
今回も、大阪発の朝一番の「丹波路快速」で、2時間列車に揺られて、9時頃に到着しました。
 
イメージ 1
福知山駅から、国道24号線を、綾部方向に、歩くと、福知山市役所前(伯耆丸)から、福知山城天守が、見えて来ました。駅から15分位の所に有ります。
 
イメージ 2
福知山城公園から、昇龍橋を渡り、本丸へ登ると、本丸跡には、銅門番所、豊磐の井が、石垣が、福知山城の遺構として残されています。
 
イメージ 3
銅門番所 二ノ丸の登城口に有った、銅門の番所は、大正年間に天守台に移され、天守閣の再健に伴い再び本丸に移転されました。城の歴史を語る貴重な建物です。
 
イメージ 4
豊磐の井 本丸、天守の東側にある井戸は、直径2.5m、50mの深さは日本一を誇ります。地下の水脈まで岩盤を掘り下げており、今も清らかな水をたたえています。
 
イメージ 5
石垣 天守台から本丸にかけて野面積の石垣は、穴太積み(あのうづみ)と呼ばれる積み方で、約400年もの歳月を耐えて来ています。
沢山の五輪塔や宝篋印塔が転用石として使われているのが特徴です。
 
 
福知山城は、畿内を押さえた織田信長が、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じ、秀吉は山陽道から進軍したのに対して、光秀は山陰道側より入り、丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主としました。
 
秀満は、天正10年(1582年)6月、光秀が信長を討った、本能寺の変では、先鋒となって本能寺を襲撃し、その後、安土城の守備に就き、秀吉との山崎の戦いでは、光秀の後詰めとして打ち出浜で、堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入り、自ら城に火を放って自害したとされています。
福知山城では、秀満の父が留守居役と成っていたらしく、豊臣秀吉軍が福知山城を攻め、秀満の父を捕え、京に連行され同年72日、栗田口で処刑され、明智光秀の在城期間は僅か3年間で終わりました。
 
その後、福知山城は、3代目には、豊臣氏の家臣、小野木重勝が城主となり、秀吉の没後、関ケ原の戦いでは西軍に属し、細川忠興の福知山城攻めで敗れ、亀山城下で切腹すると、変わって、有馬豊氏が入城。
豊氏は、山陰道を押さえる要衝地である、福知山城を近世城郭として大改修を行い、現在に残る華麗な姿とした。
 
後、寛文9年(1669年)、土浦城から、8代城主として、朽木種昌が入部、幕末の明治2年(1869年)に至るまで約200年の長き亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治しました。
 
イメージ 6
明治時代の始め、廃城令で取り壊され、石垣と銅門番所だけが残されましたが、現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が、1986年(昭和61年)に復元され、福知山市郷土資料館の施設と成っています。