あの時ああしていれば、もっと違った人生があったかもしれない。
違ったかもしれないし、結局同じかもしれない。
でも、そのああしていればが、もっと悪かったと思う人は、なぜだか少ないです。
あの時ああしたから今の自分がいて、最高の自分がいる、
常に最善の選択をしているから、最高の自分と最高の人生で生きられてすごいハッピーと思ったっていいわけです。
そして、実際そうなのです。
まあ、もっと言ってしまえば、良いも悪いもないのですが。
とある視点の、とある方向性だけから見れば、良いとか悪いとかありますが、
いわゆるどこの誰かからしたら都合がいい・わるいがあるだけなのです。
自分というのは四六時中宇宙の中にいますから、そこからどんなものだって想像できるし、想像できるんです。
なので、自由自在だし、自分に都合のいいように解釈もできるし、
そもそも生きている限り生きているし、自分で自分をハッピーにすることもできます。
「あのとき、ああしていれば」と思う心をどう理解するか
1. 脳科学から見た「もしも」の正体
人間の脳は過去と未来を自由に結びつける機能を持っています。特に前頭前野は「反事実的思考(counterfactual thinking)」と呼ばれるはたらきを持ち、実際には起きなかった「もしも」をシミュレーションします。
これは進化の上で大きな利点でした。「あのときこうしていれば危険を避けられた」と想像できることで、次の判断に役立つからです。
しかし現代では、危険から身を守るための「もしも」が、かえって 終わったことへの後悔や自己否定 を強めることにつながります。
つまり「選ばなかった人生」を思い浮かべるのは自然なことですが、それはあくまで 脳がつくり出す仮想映像にすぎない、ということです。
2. なぜ「悪かったかもしれない」と思わないのか
多くの人は「もっと良かったかもしれない」と考えるのに、「もっと悪かったかもしれない」とは思いません。
これは脳の報酬系が「より良い未来」を探し出すクセを持つからです。脳は常に「快楽の最大化」を目指し、空想の中でも「もっと幸せだったかも」と物語を描きやすいのです。
しかし現実的に考えれば、選ばなかった人生が今より悪くなっていた可能性も十分あります。
つまり、「後悔」は脳が見せる バイアスのかかった物語 だと理解すると、心は少し自由になれます。
3. 縁起の視点:そもそも「選べなかった」という理解
仏教では「縁起」という考え方があります。
これは、「あらゆる出来事は、無数の条件がそろったときにだけ起こる」という意味です。
過去にあなたがとった選択も、「そのときの出会い」「環境」「気分」「経験」「社会状況」など無数の縁がつながったからこそ選ばれたのです。逆に言えば、選ばなかった道は「その縁が整っていなかったから起こらなかった」。
この見方に立つと、「選ばなかった過去を悔やむ」こと自体がナンセンスに思えてきます。
なぜなら、その選択肢はそもそも 起こり得なかった からです。
4. 「良い」「悪い」を超える
私たちはつい「良い選択」「悪い選択」とラベルを貼ろうとします。けれども、ある出来事が「良い」か「悪い」かは絶対的なものではなく、立場や時代や文脈によって変わります。
仏教の視点から言えば、善悪も成功失敗も相対的なものでしかありません。
だから「選んだことそのものが、良い悪いを超えて“ただそうだった”」と受け止めることができます。
5. 自由自在の解釈
結局、人間は 出来事をどう解釈するか によって幸福度が決まります。
脳は想像力を持ち、宇宙のように広大なシナリオを描くことができます。その力を「後悔」に使うか「感謝」に使うかは、自分で選べます。
「常に最善の選択をしてきたから、いま最高の自分がいる」と思っていいのです。
いや、もっと踏み込めば「良い悪いはそもそもなく、ただ生きていることそのものが最高」だと気づくこともできるのです。
まとめ
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脳は自然に「もしも」を想像し、後悔を生みやすい
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しかしそれは仮想映像であり、現実ではない
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仏教の縁起の視点では、「選ばなかったものは選ばれる縁がなかった」だけ
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「良い/悪い」というラベルを超えれば、今この瞬間がそのまま最善
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想像力を「後悔」ではなく「感謝」に使うと、人生はより自由で幸福になる