血糖値を下げるインスリンには、前回のコラムで取り上げた“投与時のエラー(Medication Error)”だけでなく、別の大きな問題があります。それは、(1)インスリンを用いた犯罪、(2)自動車運転中の低血糖(意識低下)による事故――です。医療提供者は、これら2つのリスクについても理解すること、そして、特に薬剤師は、ハイリスク薬のインスリンを適切に管理する重要性を認識することが必要です。
医薬品を用いた犯罪としては、睡眠(鎮静)薬を用いたケースがよく知られています。睡眠(鎮静)薬を用いた犯罪は、医療関係者だけでなく、一般市民も加害者となり、意識を失わせることによって、わいせつや金銭(やクレジットカード)窃盗などの行為が主なものです。一方、インスリンを用いた犯罪は、死に至らせる凶悪なものもあります。
そこで、インスリンを用いた犯罪事例を紹介し、インスリンの“もう1つの危険性”を知っていただきたいと思います。今回紹介する事例は、すべて現時点(2018年11月4日)でもweb検索が可能な事例です。
インスリンを用いた犯罪事例も、睡眠(鎮静)薬と同様、医療スタッフによるものと一般市民によるものに分けられます。
(1)インスリンを用いた犯罪
・医療スタッフによる事件事例
【事例1】1998年報道(福岡県久留米市で発生)
1998年1月、3人の看護師(A、B、C)が、Cの夫(39)の静脈に空気を注射して殺害し、保険金約3500万円をだまし取った。また、1999年3月には、看護師Dを加えた4人が、Dの夫(44)の鼻から胃にチューブを入れ、大量のウイスキーを流し込んで殺害し、保険金約3300万円をだまし取った。さらに、2000年5月には看護師Bを除く3人が、Bの母親にインスリンを注射して殺害しようとしたが、抵抗され未遂に終わる。
【事例2】2010年3月報道(京都府京都市で発生)
看護師(24歳)は、2009年11月14~16日に数回、容体が悪化した女性患者(94歳)の血糖値を検査した際、患者が低血糖状態に陥っていたにもかかわらず、正常値だとする虚偽の数値を、ナースステーションのパソコンからカルテに記入した疑い。
女性はこの3日間に3回、低血糖発作を起こし、一時、意識不明の重体になった。患者の体内から高濃度のインスリンが検出されたが、患者は心不全でインスリン投与の必要はなく、カルテにもインスリン投与の記載はなかった。その後、女性は回復し退院。
【事例3】2011年8月報道(東京都府中市で発生)
てんかんの手術を受け、意思表示や体を動かすことがほとんどできない状態になっている女性入院患者(45歳)の呼吸や脈拍が弱くなっているのを看護師が発見した。低血糖であることが分かり、ブドウ糖を投与するなどして危険な状態を脱した。その患者の血中からは、通常の2500倍量のインスリンが検出された。
【事例4】2014年8月報道(東京都世田谷区で発生)
女性入院患者(91歳)が3回にわたりインスリンを投与され、手足が突然震えるなど低血糖の発作を起こした。患者は、間もなく回復し、命に別状はなかった。病院が患者の血液を検査したところ、高濃度のインスリンを検出。担当看護師(25歳)が、患者に異変があった時間帯に患者の病室に出入りしていたことから、治療上の必要がないのに故意に投与した疑いが持たれている。
【事例5】2017年3月報道(大阪府高槻市で発生)
准看護師資格を持つ母親(21歳)が、准看護師として働いていた2016年7月11日と18日、自宅や入院先の病院で長女(1歳)にインスリンを混ぜたカフェオレを飲ませ、入院が必要な低血糖状態にさせた。入院先の病院の関係者が異変に気付いて治療したため間もなく回復し、後遺症などもない。インスリンは正規の治療で得たものでないとみられ、大阪府警は入手経路を調べている。
医療スタッフが関与した事例は、私の調べる限り、すべて看護師によるものでした。病棟や外来診療科の冷蔵庫内には、未開封あるいは開封済みのインスリンバイアルが複数本あることがあります。そして、バイアル入りのインスリン製剤は、たとえ患者個人単位の処方であっても、複数回使用を前提としています。そのため、投与量と残液量の管理が難しく、その気になれば手に入れることは難しくないからだと推測されます。
【事例1】は、その凶悪ぶりが社会の関心を集め、森功氏のノンフィクション作品「黒い看護婦」として2004年11月に出版されただけでなく、2015年にはテレビドラマ化(主犯役は大竹しのぶ、フジテレビ)されました。
【事例2~4】は、看護師が、投与の必要のない患者にインスリンを投与したという事例です。これらの事例については、その動機について当事者の心理学的な分析が行われています。
【事例5】は、薬学的に見て少し不思議な事例です。というのも、現在使用できるインスリン製剤は、経口投与ではほとんど消化管吸収されないので、血糖低下作用は起こらないからです。ちなみに現在、インスリンを腸溶性カプセルに詰めて経口投与するという研究が進められています。興味のある方は、「経口インスリン」あるいは「oral insulin」で検索してみてください。
この事例で低血糖状態になったのは、1歳という臓器機能が未熟な幼児であったためか、あるいは、投与量が大量であったためか、疑問が残ります。
また、ここで紹介した事例以外にも海外で発生した犯罪事例もあります。こちらも、看護師の関与が疑われています。興味のある方は、「nurse insulin murder」で検索してみてください。
・一般市民による事件事例
【事例1】2004年4月報道(千葉県横芝光町で発生)
農業を営む男性(53歳)が、妻(32歳)から大量(通常の10倍以上の量)のインスリンを投与され、意識不明となった。被害者は、植物状態のまま意識が戻ることなく、2009年7月に亡くなっている。インスリンは、知り合いから入手している。
【事例2】2016年3月報道(広島県広島市で発生)
借金の返済を免れるため、複数回にわたり男子大学生(当時24歳)に抗うつ薬を服用させ、さらにインスリンを注射し、風呂場の浴槽に浸けるなどして殺害したとして、男性(43歳)を逮捕した。使用したインスリンは知人からもらったといい、殺害目的で入手した可能性が高い。抗うつ薬や殺鼠剤も事前に準備していた。数日にわたって被害者に投与したとみられる。
【事例3】2017年6月報道(埼玉県さいたま市で発生)
自宅で、妻(54歳)が夫(当時70歳)をつえで殴る暴行を加えた上、多量のインスリンを注射して低血糖状態に陥らせ、夫は呼吸不全により死亡した。夫に持病や病変がなかったことなどから、インスリン投与時、夫は生存しており、妻はもそれを認識していたとされている。また、主治医がインスリンを多量に投与する危険性を説明しており、妻に殺意があったとみられる。
【事例4】2018年10月報道(大阪府堺市で発生)
実家兼事務所で糖尿病の父(当時67歳)にインスリンを過剰に投与し、低血糖による脳障害で死亡させたなどとして、娘(44歳)の水道工事会社社長が逮捕された。娘は、事件前に「インスリン」や「低血糖」などのキーワードでインターネット検索をしていたことも判明している。
『なぜ、インスリンが犯罪に使われるのか?』
インスリンを使用した犯罪事例は、ここで紹介したように少なくはありません。なぜ、インスリンは犯罪に使用されるのでしょうか?
その理由として、(1)人を死亡させられること、(2)入手が容易なこと、(3)投与しやすい(キット製品、皮下注)こと――の3点が挙げられます。さらに、自己注射が健康保険対象になっており、医療スタッフから教育資材を用いて十分な教育指導も受ける機会が多いこと、インターネットの普及によりインスリンに関する知識を得やすいこともあるでしょう。
医療機関内であれば、院内のインスリン管理手順の整備や監視カメラの設置などという防犯体制が取れますが、外来患者の手に渡ったインスリンについての管理にまで、医療スタッフの目は届きません。自分のインスリン製剤を他人に渡す可能性もあります。これらの犯罪事例を考慮して、インスリンのリスクを患者さんに理解してもらうことが重要です。
患者あるいは一般市民で発現した低血糖状態に、少しでも異常・疑問を感じたら、尿中Cペプチド(CPR:C-peptide immunoreactivity)の測定が必要です。膵臓から分泌されるインスリンは、前駆蛋白のプロインスリンがインスリンとCペプチドに分解されて分泌されます。もし、大量のインスリンを注射した場合には、発現している低血糖作用の強さの割には、Cペプチドが異常に低値を示します。
つまり、血糖値とCPRを測定することが、体外からインスリンが投与されたどうかを見分ける根拠の1つとなります。患者さんに「外部から投与したかどうかは検査で分かります」と説明する必要があるかもしれません。