日本の力の源泉の一つに、内省力は自己の心の深くをじっくりと見つめる力である。この力と文化受給国としてのたゆまない改良工夫技術、更に継続できる力が相乗効果を発揮して神武天皇依頼、現在に至るまで日本をずっと支え続けてきた。これらの力が正に、中華思想の夷狄に堕することなく日本国と言う国体を維持して、ノーベル賞を20名も排出できる国になったのだ。以前にも書いたが、禅は菩提達磨から中国で起こったが、禅は仏陀の精神を直接見ようとする。しかし、我々の知的作用が仏陀の精神を見る事を妨げるため、禅では厳しい座禅や問答なる方法で真理を体得させようとする。日本人の自己を凝視し続けようとする力が発祥の中国では途絶え、日本は現在も法灯を灯し続けている理由である。しかも、座禅や問答など厳しい苦行をしなくても、日本人は茶道と言う文化にまで昇華させ、驚くべきことにそれを茶室と言う狭い空間の中で実体験出来るよう工夫したのである。それが日本文化の基盤である、浴び・寂びをも具現していることに奇跡を感ずる。それ故、利休は特別な存在として語られるである。その存在の大きさが大きすぎて、後の自刃という不幸を招くことになる。茶道に俳句が加わると、日本文化の骨格が見えてくる。この辺は非常に面白い。

 私も30年もそれ以上も追及してきたので、「日本人のx軸y軸z軸」として自費出版」した。それを読んで頂ければもう少し私の考えを分かって頂けると思う。

現在の私は、八十路のじじいで右手右足にまひが残り、役立たずの濡れ雑巾の身である。ベッドの中で暗闇の中、神に祈ることと、自由に思考を働かせることが生きていることへの証である。思考は動かない右手右足を忘れて一瞬の自由を与えてくれる。有難い貴重な楽しい時間なのである。