一応断っておく。これは安定剤を飲みながら全くの「でたらめ」を書いている人間の戯言に過ぎない。
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Lisaが結婚した。
正直、ソードアートはずっと見ていたが、unlastingを聞くまでは、所謂アニソンテンプレートか、と思っていた。
unlastingは違った。はっきりとしたメッセージがあった。何度も聞いた。そして涙があふれた。
結婚のニュースを目にしながら、もう一度聞いた。そして僕はもう一度泣いた。
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歌詞については多くは言わない。言うと陳腐になってしまうから。
暗号は暗号のままが美しいのか、
暗号が解かれ平文化される際に何かを失っているのか。
文字起こしする際に、情報量が減る。ディスプレイに映る画像を見る空間で情報量が減る。
空間、時間、そういった4次元的な要素やそのほかあらゆる方法で情報量が減り、価値が下がっていく。
中古ゲームの値段に例えると分かりやすいだろうか?
詩文でもゲームでも音でも息遣いでもアートでも、おおよそ人間のつくる営みすべては、暗号の状態が美しい。
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ツイッターが流行して言葉尻をつつく、この切り抜きの時代にあえてブログを書く。
人間の営み、つくること、それは夢。
「夢は夢のままで…」vs「いいや現実にするね」
本質を知るまでが楽しい。ある種のネタバレ論争のようなものにも近似している。
それはさておき、本当に興味のある分野は本質を知ってからそれを組み立てるに至ったプロセス、地理的背景、歴史、文化。
そういうものは肌で感じるのが一番だ。直感は大事だ。
ミリタリーオタク的文章で例えるなら、
スペックが130㎝が4門「だ」 ではなく、
「なぜ」130㎝が4門になったのかを知る必要がある。
些細な事に囚われて全体を見失ってはいけない。それは揚げ足取りで、何も生むことは無い。時には強い力が必要だ。
…全体主義。現代でもっとも忌避されているもの。
全体主義ー民主主義
欧米法(慣習法)-大陸法(成文法)
東洋ー西洋
陰ー陽
つまり陰陽五行的な流れ。盛者必衰、万物流転。
もっといく。
つまり、
戦争ー平和
発展ー停滞
自由市場ー重商主義
こうしてアダムスミスに行きついた。
経済学は(少なくとも今のところ)万能だが未だに未知である。誰もマーケットの行く末など知る由もない。
明日株式が暴落してしまうかもしれない。それでも長期的に見れば、全体の総和は上昇していくことは何となくわかっている。
新自由主義は貧富の格差を生み出し、社会貧困を生んでいる。が、この記事で扱いたいのはそれではないので飛ばす。些細な事だ。
スーパーSF的なアイデア…
全ての人々が超越的計算機の支配下の元に、心理的・社会的なデータを全て数値化して表現することが可能になったとしたら?
暗号平文化すると、確率の機械が存在したら?
もちろんそれは僕が生きている間には達成されない、と見ている。
しかし経済学という「コンテンツ」を「人々」が理解し始めたら、世界はどうなるのか。
それでも経済学は終わらないのか、新たな思想が陰陽のように揺り戻されてくるのか。
まあ、いずれにせよ、未来の世界は今よりもっと楽観的だと思う。
人類史を全体から俯瞰したとき、太古の方が現代より優れていたという人はいないし、中世もまた近世にはかなわない。
何らかのシンギュラリティ、こういうと最近はAIの話になるけれど、ヨーロッパ史では30年戦争や宗教改革など、こういったシンギュラリティー特異点は枚挙にいとまがない。
その意味では先の大戦も「語ってはならないシンギュラリティ」だったのだろう。
インターネットは全てを変えた。全てではないが、あらゆる影響を及ぼしている。
そう遠くないうちに(20000年後とかかもしれないが)シンギュラリティは来るだろう。それは誰もが分かっているはずだ。
その際。
恐らく、短期的に非常に厳しい困難があるのだろう(そしてそれは起こるだろうと皆感じているー揺り戻し、陰陽五行)けど、
その時に困窮している人々に対して何ができるのか?
非常に厳しい困難。歴史を見ても、その困難は時代を追うごとに苛烈さは増しているように思う。
それを救う事。
全ての人々が「本当の意味で」平等であること。
決して今の上っ面の平等ではない、真の平等。
それは現実の今ある書物でいえば「共産主義的」なユートピアではあるがそうではない。
マルクスの資本論を見てみればわかる通り、現代から見れば、彼の残したものは実際の所穴だらけで、即物的だった。
そのうえ彼らは武力による革命を望んだ。誰かが言っていた通り、「共産主義は失敗することが分かっていた」ということだ。
思想そのものを否定するつもりはない。思想信条は自由だ。政治に寄りすぎたので修正しておく。
民主主義的なプロセスでは、言葉の揚げ足取りが目立つ。それも自由なのだが。
ツイッターではもはや暴力とも言えるほどの悪辣な言葉が日常茶飯事のごとく飛び交っている。
表現の不自由展にもついでに言及したいからしておこう。果たしてあれは「自由」だったのか?全体主義だったのか?
自由とは自主的な検閲を行う自由も認めてよいのか?暴言も自由か?自由を意識するあまりはき違えていないか?
おもしろおかしく炎上させることが果たして自由なのか?
自然発生的な欧米法ーコモンローシステムと大陸法の制度との対立の側面。
全ては揺り戻し。マーケットメカニズム。
意見はいろいろある。
これくらいにしておこう。ここで短期的、即物的な政治的主張を行いたいわけではない。あくまで長期的、永久に残る、文化的主張が行いたいだけだ。
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僕が好きなフィクション・ゲームの台詞にこんなものがある。
「陰陽二元説は克服できると私は信じている」「上昇するものは…絶対落ちるべきじゃない!」
全ての者が常に、一度たりとも落ちることなく、上昇し続けることなどできるだろうか ー答えるまでもない。
全ては動いている。 …そして、止まる。
あらゆる物語の終わりに、いったい僕は何が残せるだろう?
僕はそれをずっと探している。
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やっぱり怪文書だね。でも直さない。こういう考え方の人も居るんだーくらいで、聞き流せばいい。
所詮ただのメモ帖。
夢うつつ。薬も回ってきたところで。
おやすみなさい。