PotepotteのPottepote

PotepotteのPottepote

つらつらと、こっそりと。

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別サイト「pixiv 」にて、推敲前の作品を重複掲載中です。

『金魚姫と本の王子さま』

 金魚になってから三日のうちに、わたしは三回、引っ越しをした。
 一度目は露店のビニールプールに入れられて、浴衣を着た人や着ない人がわたしの側を通り過ぎるのをじっと見ていた。
 まだ日は高くて、花火の時間には遠かったから、お客さんの雰囲気も財布の紐もゆるんでいなくて、五百円を払って金魚すくいをする人は少なかった。
「もうかるの」
 店主のハルさんに聞くと、
「原価がいくらだと思う」
 反対に聞かれてしまったから、コストパフォーマンスが高い商売なのだなと思った。
 わたしのほかにはしゃべる金魚はいなくて、ハルさんから他の人とはしゃべらないようにと命じられていたから、山車の見物客に話しかけることもできず、半日の間、ぬくたい水の中で退屈に過ごした。
「一匹もすくえなかったお客さんがいたら、まっさきにお前をプレゼントしてやるから、心配するな」
 金魚すくいなどやったことがないから、本当にお客さんにもらわれていって、自分の小説のアイデアを探すために人の生活をのぞくことができるのか不安だったが、ハルさんが力強く言った。
 だんだんと日が落ちてきて、お囃子が神社に近くなってきて、花火大会なのか祭礼なのかわからない神社の一本道に、お客さんが群がり始めた。山車を曳くのは腹が減るから、食べ物のお店はお昼から売り上げが好調だったらしく、耳を澄ましていると、そろそろ食材が足りなくなっているところもあるようだった。
「うちは、どこにも買いに行けないけどな」
 やきそば屋さんがキャベツを買い足しに行くのを見て、ハルさんが言った。
「一回、お願いします」
 わたしの頭の上から、女性の声がした。
 見ると、小学生くらいの男の子の手を引いた若い浴衣の女性が、財布を取り出して小銭を数えていた。
「五百円ね」
 不意を突かれたみたいだったが、ハルさんは手馴れていた。
「あの、黒いやつ」
 男の子が言うと、女性は任せてと言って、浴衣のすそをまくった。いいところを見せたいのか、水に濡らしたくないのか、肩のところまで一生懸命にまくって、髪を結った。束から逃れた髪が何本か女性の首筋に残って、汗で肌にはりついた。
 おわんとポイを受け取ると、女性は石になったようになってプールの中をにらみつけて、しばらく動かなかった。
 女性から手を離した男の子は、手持ちぶさたのように両手をからみ合わせて、母親らしい女性のことを見ていた。
 どうして男の子が金魚をすくわないのかと、わたしは不思議に思った。
 手筋が悪かったわけではないが、重たいデメキンを狙ったのが悪かったのだろう。母親は一匹も金魚をとることができず、
「ごめんね」
 男の子にわびて、道具をハルさんに返した。
「いいよ」
 男の子が母親の手を取って、優しい声で言った。この子は将来、同じような声でたくさんのいいよを言って、それだけの数の女性をいら立たせるのだろうなと思った。
 もう一回とせがまないだけ、えらいことはえらい。
「残念賞」
 ハルさんがわたしをおわんですくいあげて、ポリ袋に入れて男の子にわたした。
 一瞬、男の子の顔がほころんだが、すぐに口元をむすんで、「黒いのがよかった」
 男の子が内心、喜んでいるのを知っているのか、母親はありがとうございますとハルさんに言って、一発目の花火の音が鳴ったのを見上げた。花火は先端のそうめんのようなところしか見えなくて、男の子は母親の手をにぎったまま、早足で人ごみに入っていった。
 男の子の右手に、母親の手。左手に、わたし。
 最後にハルさんを振り返ると、
「さよなら」
 口の動きだけで聞こえた。さよならをされても、このままずっと金魚でいる気はない。
 花火は千五百発で、それほど多くないにしろ、老人のほうが多い街をにぎやかにするくらいの盛大さで、祭りは終わった。
「早く帰ろう」
 男の子が言うと、
「めずらしい」
「金魚が、弱っちゃうから」
 二回目の引っ越しは、男の子の家の水槽だった。
 駅から坂をくだって十五分くらいのマンションで、街道から少しそれた小道にあった。
 次の日の夜、わたしは、新品のにおいのする金魚鉢へ、三回目の引っ越しをした。
 最初の一週間はえさの量の加減がわからなかったらしく、すぐに水がにごってしまい、金魚ではなくてひよこになっていたほうがよかったかなと閉口した。
 窓辺に置いてもらっていたから、それほどやわな身体のつくりでないにしろ、直射日光が熱くて、これも閉口した。
 夏休みが終わっても、男の子は学校へ行かず、わたしのそばで本ばかりを読んでいた。
 ハルさん以外の人としゃべらないというのが金魚にしてもらった条件だから、わたしは男の子をずっと眺めているだけだった。

 自分は金魚姫なのだなとくだらないことを考えていると、すぐに九月もなかばを過ぎ、気温はあいかわらず夏日が続くものの、一日中窓辺にいるものにとっては、日が短くなってきたのが実感できるようになった。
 男の子は学校へ行かず、母親も学校のことはなにも言わなかった。
 リビングと和室のほかに部屋がふたつもあるマンションに、母と子がふたりだけで、父親はいないようだった。朝九時から午後一時までの母親のパート勤めだけで生計が立てられるのだろうかと思ったが、マンションを売り払う様子もないし、食生活も以前のわたしよりも豪勢だったから、世の中には色々な家族がいるのだろうと納得した。
「今日はなにを読んだの」
 夕飯を食べながら、母親が男の子に聞いた。テレビはついていない。
「手塚治虫を、小説に直してた」
 フォークとナイフを止めて、男の子が答えた。自分のことを聞かれるのは嫌いではないらしい。
「小説に直して、どうするの」
「短編の勉強」
「べんきょう」
「どれくらいの長さでどれくらいのものが書けるのか、勉強してる」
 昼間、久しく読みこんでいたルブランを手放して、文庫版の『クレーター』をめくりながらパソコンをいじっているのを見て、なにをしているのだろうかと思っていたが、合点がいった。
「必要な本あったら、買ってこようか」
 小説のことには触れずに、母親が聞いた。
 欲しい本ではなく、必要な本ということは、息子が物書きを目指していることを容認しているのだろう。あるいは、気晴らしになればというくらいに見ているのかもしれない。母親としては甘やかしたいだろうし、お金にも余裕があるのだろうが、子どもにお金を持たせない彼女のやりかたは、好感が持てた。
「ネットで探すから、いい」
 男の子は言って、うまそうに肉とごはんをかきこんだ。これだけうまそうに食べれるならば、クラスでも人気者になれるだろうにと思ったが、ふたりきりでおしゃべりをしたことのないわたしが言えることではないから、頭のすみに置いたままにした。男の子の携帯は、ほとんど母親からの電波しか受信したことがない。
 せっかく小説のネタは見つかったのに、男の子がずっと家にいるものだから、人間に戻って逃げ出していくことができなかった。土日は母親も家にいるが、めったに外出をしないし、男の子を外に連れ出すことはない。冷蔵庫の中身は、平日のパート終わりに買って帰ってくる。花火の日は特別なお出かけだったのだなと想像がついた。
 墓参りの帰りだったのかもしれないと考えながら、家賃を二か月分、前払いして金魚になってみたが、それで足りるだろうかと怪しんだ。

 男の子は三日もせずに手塚治虫を投げ出してしまって、どういうわけかわたしが泳ぐのを観察するようになった。
 えさをやって、眺めて、ふんをたれながすのを眺めて、水草をつつくのを眺める。
 いつから立場が逆転してしまったのかと、緊張して過ごさなければいけなくなった。生来、見られることも、目立つことも好きではない。
 わたしはこの家に越してきてから、ずっと金魚、金魚と呼ばれていたが、男の子はわたしに夏帆という名前をつけた。
「かほさんだよ」
「どういう字なの」
「夏に、ヨットの帆」
「どうして、ヨットなの」
「ぼくの筆が、風のかわりなの」
 わたしが小説の主人公にされてしまうのだなと、察しがついた。
 なぎも、暴風も、転覆も、男の子の想像しだいで決められてしまう。
 書かれるということの気持ち悪さが、はじめて自分に向けられて、人間観察などするものではなかったなと思った。

 次の日、目覚めると、わたしは海に放り出されて、海水など飲めたものではないとじたばたしているうちに、上半身が人のかたちに戻っているのに気がついた。
「あなたの尾ひれ、やわらかい」
「縦向きだし」
「ちゃんと泳げるの」
「どこから来たの」
「胸を隠したほうがいいと思うけど」
 わたしのまわりに人魚が集まって、一度にたくさんのことを聞く。
 とりあえず貝がらを受け取って胸を隠し、ここがカリブ海であることや、だいたい十七世紀らしいことや、食べられる海草のことを聞いた。
 筆が風のかわりだとはよく言ったものだが、男の子がここまで好き放題やるとは思っていなかった。
 カリブ海には海賊がうようよしているから、人魚の群れは大陸の王様から海賊退治の委託業務を受けて、歌声で彼らをまどわせ、船を沈め、いくらかの賃金を得るという生活をしているのだった。
「南の国の王子さまがとても美しいの」
「こんど、お忍びで視察に来るらしいって」
「お給料、上がるかも」
「貝がらやサンゴより、宝石がほしい」
「宝石は、ちゃんと沈むもんね」
 姉がわりになってくれた五人の人魚が口々に言うから、わたしもどういう王子さまなのか期待して過ごしていると、三日目の海賊退治を張り切りすぎて、王子さまを乗せた船まで沈没させてしまった。
 王家の第一王子を死なせてしまったとあれば海賊退治どころか国をあげて人魚討伐が始まってしまうかもしれないから、姉と六人がかりで救出にあたっていると、わたしは予想通り王子さまを引き当ててしまうことになった。
「どうしましたか」
 漁村の娘が駆けよってくるのを見て、わたしは海にもぐって、遠巻きに王子さまが娘に介抱されるのを眺めた。筋どおりではあるし、物語にあるほど王子さまは美しい生まれつきではなかったけれども、息を吹きかえした彼が娘に礼を言うのを見て、悔しいと思った。
 悔しい、悔しいと、わたしなのか、物語なのか、どちらかわからないものが叫んだ。悔しい。
 わたしが声を失うかわりに人間の足をもらうところまで男の子の筆は進んだが、それきり物語が進まなくなって、いぶかしんでいるうちに目覚めると、わたしは金魚鉢の中に戻っていて、男の子の気配は家のどこからも感じられなくなっていた。
 うんうんうなりながら一時間かけて人間に戻って、その日が平日であること確かめ、母親の服を借りて家の中を歩いて回ったが、男の子のランドセルはどこにもなく、母親が用意したサンドイッチが冷蔵庫の中に残っていただけだった。
 花火の日に母親の金魚すくいをじっと見ていた男の子は、なにがきっかけなのかわからなかったが、家を出てみる気になったのだなと、十月分の家賃が間に合いそうなことに安心した。
 服を勝手に拝借したのと、玄関の鍵を閉めないで出て行ていったことはすまないと思ったが、ベランダの四階から裸で出るわけにはいかないから、どうしようもなかったのだとあきらめた。
 パートから帰ってきた母親は、男の子がいないのと、冷蔵庫のサンドイッチが残っているのを見て、どういう顔をするだろうか。帰ってきた男の子を、どういう顔で迎えるだろうか。鍵を閉めずに出たと言って、叱るだろうか。
 それを見られないのと、金魚姫の物語のおしまいを知ることができないのと、ふたつの未練を残して、わたしは久しぶりに自分のアパートに帰った。
 男の子のことに比べれば、金魚が消えたことは些末に過ぎないし、彼が新しい着想のタネにでもしてもらえればいいと、その日は布団の上でぐっすりと眠った。
 座って本だけを読む男の子の姿が、まぶたの裏で、白抜きになって消えていった。
※イラスト・小説コミュニケーションサイト「pixiv 」にて、同筆名で推敲前のバージョンを掲載中。

『靴紐あそびのミィとリィ』

 ご主人がぼくらのことをいつまでもかほさんに紹介してくれないものだから、ミィはへそを曲げてしまって、履いてもらうたびにご主人の足首をぺしぺしと叩くようになった。
「あっちだって、へんな生き物だらけじゃない」
 ミィが言うのは本当のことで、かほさんのまわりには、ネコとツバメの親子とか、宇宙風船人形のルミ子さんとか、普通ではないひとが幾人かいる。
 ネコのちぃさんというひとは、こっちの世界のルミ子さんではない向こうの世界のルミ子さんと友だちなのだというし、そこへいまさら、しゃべる靴のぼくとミィが加わっても、頭をかかえるひとはだれもいないと思う。
「それならリィも、なにか言ってやってよ」
 ミィはそう言うが、ご主人にだって考えがあるのだから、靴の勝手な都合でご主人の言いつけをやぶってしまってはいけないような気がして、ぼくはかほさんが来ているとき、ミィを黙らせておくし、自分も口をつぐんでいることにしている。
 今年の夏は湿気が多く、お盆も蒸し暑さが続いていたが、アパートの北側は、外よりも気温が低い。
 ご主人の帰りを待っていると、ご主人の革靴ではない靴音がぼくらの部屋の前に止まったから、保険かなにかのセールスかと思った。靴音も、女性のもののように聞こえた。
 それが呼び鈴を押さずに、鍵を回して入ってきたものだから、ぼくらはおどろいてしまった。
「こんばんは」
 かほさんはぼくらにそう言って、
「横、いいかな」
 自分の靴を丁寧にそろえてぼくらの横に置いた。
「かほさん、合いカギもらっちゃったの」
 ミィがやっと口を開くと、かほさんはうなずいて、
「やっぱりしゃべれたんじゃない」
 スーパーの袋を冷蔵庫の上に置いた。
 時計は午後六時を回っていたから、外はまだ明るくても、こんばんはの時間なのだなと、ぼくは思った。

「ご主人、かほさんがいるときにはしゃべるなって、うるさいんだよ」
 かほさんが勝手にお茶を入れて、氷で冷やして飲んでいる間に、ミィはご主人への不満をしゃべり続けた。
 かほさんは聞いているような聞いていないような返事をしながら、スーパーの袋から野菜を取り出して、まな板の横に並べた。
「会社には連れて行ってくれないし」
「スニーカーじゃ出勤できないだろ」
 ぼくが言うと、
「前のときは行ってたじゃない」
「それはアルバイトだったから」
「リィはいつもご主人の味方なんだよ」
 ミィがかほさんに言う。
「ミィが愚痴ばっかりなだけ」
 スーツだからというのもあるかもしれないけれど、かほさんはご主人といるときとは雰囲気がちがって、眉がきりっと上がって、瞳がまっすぐで、まるで男のひとのように見えた。
 ほんとうは女のひとが持っている底辺の心強さのようなものを、世の中の人が、男性らしさだと勘違いしているだけなのかもしれない。
「かほさん、なにつくるの」
 ミィが聞くと、
「ビーフシチュー」
「ずいぶん立派」
「自分用にね、お店の食材、発注しちゃった」
 ぼくらに言わなければご主人にもバレないのに、かほさんはこういうところで詰めが甘い。
 詰めの甘いところがあるから、ひとが寄ってくるのかもしれない。
「色が足りないから、にんじんを茹でておいて、かぼちゃとたまねぎは薄切りにして、火を通して、甘くするの。それと、ひと口で食べられるじゃがいも」
 きっと家でもこういうふうに、ルミ子さんにひとつひとつ、説明をしてやっているのだろう。
 ルミ子さんは人間の常識があまり通じない生き物だから、最近はご主人の勤める家電量販店がお気に入りになって、ほとんどお金をもたされていないのに、かたっぱしから商品のことを店員に聞いて回っているらしい。
 一度は四百万円もするカメラのズームレンズを本気で取り寄せようとしていたようだが、額面におどろいたご主人が、かほさんに相談して、かほさんがルミ子さんを叱りつけて、黒物担当の店員さんに頭をさげて、取りやめになったそうだ。
 業務の迷惑になるルミ子さんを、店の販売員はうるさがっているが、どういうわけか、ルミ子さんはお客さんを呼び入れる体質のひとのようで、彼女がいる日は簡単にお店の予算を取ってしまう。
 ちぃさんでもなかなか怒る気になれないルミ子さんを叱ることのできるのはかほさんだけで、ご主人はかほさんのことを、ゆるぎないひとだと言ってほめていた。
 半分、あこがれもまじっていたのかもしれない。
「かほさん、包丁、上手ね」
「飲食業だから」
「手、切ったことある?」
「なんども」
「ご主人、小学生のころね、素手でガラス割ったことあるんだよ」
 ミィが言い出すから、、
「そういう話、するなよ」
 ぼくは彼女をさえぎったが、
「やんちゃだったの?」
 かほさんは包丁の手をとめずに聞く。
「ちがうの」
 ミィは首をふって、
「掃除の時間にね、クラスで流行ってたガチャガチャの人形をお道具箱から盗られちゃってね、家庭科室の窓から放り投げられて、窓から外に出て、拾ったんだけど、一番大事にしてた人形を友だちが隠しててね、窓に鍵をかけられて、閉めだされちゃって、窓の内側から友だちが、取りに来ないと捨てちゃうぞって」
 かほさんはなにも言わなかった。
「それで窓ガラスを手のひらで押したら、割れちゃったの」
 そのとき、ご主人は、なにが起こったのかわからないような顔をして、とにかく手当てをしてもらわなければいけないのだけれど、血が出ているのを下級生に見せてはいけないから、左の手首を右手で隠して、昇降口をくぐって、廊下に血がたれないように気をつけて、保健室まで行って、おどろく保健室の先生に向かって、手当てをしてくださいと丁寧に言って、傷口を洗って、包帯をしてもらって、五時間目の音楽の時間に遅れてしまって、事情を聞いていた音楽の先生に、むかし受け持った生徒が、ガラスで怪我をして半身不随になってしまったという話を聞いて、ご主人の人形をかっぱらった生徒のひとりが泣き出して、ガラス代は弁償しなくていいということになって、家に帰って、けがのことは母親に内緒にしておいたのだった。
「ほかにもね、友だちが家まで押しかけてね、ご主人、頭にきて、壁をけって、やわな壁だから、そこがへこんじゃって、お母さんにはほんとうのこと、話してないんだけど」
 コンロの音が機嫌悪そうに響いたのを聞いて、ミィは言葉を切った。
 かほさんはこっちを見ないで、返事もしないで、黙々とお米を洗い出した。
 そろそろ、ご主人の定時の時間なのに、きっと、ミィが話しているうちに、お米を洗う順番を飛ばしてしまったのだろう。
 ミィはバツの悪そうな顔をして、
「かほさん、こわい」
「当たり前だろ」
「お料理の順番、間違えただけじゃない」
「それだけじゃないって」
 小声で言って、ミィにはわからないだろうなと思った。
 ご主人は、自分の話を自分の口からしたかったから、ぼくらを黙らせておいたのだろう。
 かほさんもそれを知っていたから、ぼくらに話しかけなかったし、ぼくらのことをご主人に聞くこともしなかったのだと思う。
 今日、かほさんはご主人が帰らないうちに家に来てしまって、ついぼくらに話しかけてしまって、ご主人から聞いていないむかしのことを、ミィの口から聞いてしまった。
 きっと、かほさんにも、自分の知らないご主人のことを聞いてみたいという気持ちがあったから、ぼくらに話しかけたのだろうけど、聞いてしまってから、やっぱり本人の口から聞きたかったなと思いなおして、いつまでも自分のことを隠しておこうとするご主人に怒り出したのだろう。
 ぼくより年下のミィは、まだそういう心の動きの微妙なところまで感じ取ることはできない。
「勝手にしゃべっちゃって、ごめんね」
 ぼくがかほさんに言うと、
「いいの」
 お米を炊飯器にセットして、やわらかい声でかほさんが言った。
「自分でやったんじゃないんだってわかったから」
 ご主人の靴音を聞いたかほさんは、急に目がぱっちりと開いて、女のひとの顔になって、エプロンをしていないことに気がついたけれど、まあいいやと口の中で言って、ご主人を出迎えた。
 夕飯のあと、そろそろしゃべっていいかなと、ミィがむずむずしていたが、ぼくは彼女の口を押さえて、ご主人のかわりに靴紐でぺしぺしとたたかれていた。
 かほさんはぼくらのことにはかまわず、ご主人の左腕をやさしくなでて、
「すべすべ」
「どうしたの」
「どうしたんだろうね」
「なにそれ」
「なんだろうね」
 部屋を暗くして、抱き合うわけでもなく、離れるわけでもなく、静かに横になって、明日には忘れてしまうような、たわいもないお話をしていた。
 かほさんのパンプスはぼくらのようにしゃべったり、動いたりはせず、靴先をそろえて、きちんと玄関のほうを向いていた。
 かほさんが留守をしている家で、ちぃさんがルミ子さんに困らされてないかと心配になったが、それを気にするほどおせっかいではないかほさんが、ご主人にはちょうどよい距離感のひとのような気がして、ぼくはミィの小言を聞きながら目を閉じた。
「リィの、ひとでなし」
「靴だもん」
「言葉あそびじゃなくて」
「そう」
 靴だって、静かにしていたいときはあるし、眠くもなる。
 ひとにだってそういうときがあっていいと思うから、ぼくはずっとご主人のことを見守って、声をかけるときと、かけないときとを選び分けてきた。
 かほさんがこれから順調に、そういうひとになっていくのだとしたら、ぼくらはただの靴に戻って、別の世界の新しいご主人のところに行くのだろう。
 今度まぶたを開けたら、ひょっとすると、別の街にいるかもしれない。
 なるべくこの家のことを覚えておこうと、暗い部屋をぐるりと見わたした。
 ご主人とビーフシチューのにおいには慣れてしまったから、ぼくのまわりに、かほさんだけがただよっているように思えた。
「リィの変態」
「そういうんじゃなくて」
「履かれてみたいんでしょ」
「うるさい」
 ミィとはどこまでもいっしょだろうから、ぼくの右側はいつもやかましくて、生きた心地がする。
※イラスト・小説コミュニケーションサイト「pixiv 」にて、同筆名で推敲前のバージョンを掲載中。


『幽霊ちぃさんの芥川賞』

 店の女子トイレに幽霊が出るのでなんとかしてくれないかと、お客さんに苦情を言われたものだから、幽霊者検定三級保持者で、キッチンリーダーのハルさんを連れて行ってみると、わたしにはぜんぜん、彼女の姿が見えなかったが、ハルさんが言うには、わたしは簡単に彼女にとりつかれてしまったようだった。
「頭が痛いとか、背筋が寒いとか、ないのか」
 ハルさんに聞かれたが、身体にはなにも変化がなかったから、わたしは首をふった。
 幽霊者が幽霊を見ることができないというのもへんな話だが、幽霊にとりつかれる幽霊者というのもどうかと思う。
「なにか未練でもあるのか」
 ハルさんがわたしの中の花子さん(仮)に向かって聞くと、わたしの口が勝手に動いて、
「とくにあるわけじゃないけど」
 ぞんざいに言う。
 それならどうしてこの世にとどまっているのかと聞いてみると、
「あなただってそうじゃない」
 花子さんはわたしに向かって言った。
 たしかにわたしも幽霊になったあと、幽霊者枠というかたちでテレーゼの勤務をしているから、働いているかいないかという違いがあるだけで、わたしと花子さんの境遇はあまり変わらない。
「どうして生きてるみたいに働くの」
 花子さんがわたしに聞くから、わたしはしばらくの間、首をひねって、
「行き先が決まらないというか、ふんぎりがつかないっていうか」
 たいした理由があるわけでもないのに、それらしい答えをつくって満足した。
 要するにモラトリアムでいることを説明するための言い訳なのだけれど、幽霊者というかたちであったとしても、この世で生きている以上、こそこそとはしていたくない。
「あたしもそんなところ」
 花子さんが口を開いたから、
「ぶらぶらしてないで、働けばいいじゃないか」
 ハルさんが彼女に言った。
「粒子を借りれば、正社員にだってなれる」
 年長者だが、花子さんより年上とは限らない。
「それくらい知ってる」
 花子さんはぶっきらぼうに言った。
「居心地がいいだけで、自縛霊じゃないんだから」
 くさくてひんやりとした場所が居心地がいいとは思えなかったが、花子さんにはわたしの考えたことが伝わってしまったようで、
「人間観察に便利なの」
「にんげんかんさつ?」
 思わず聞き返すと、
「芥川賞を取ってみたいんだけどね」
 花子さんはため息をひとつ置いた。
「粒子を貸してもらうには、ちゃんとした勤務地とか、事業所が必要でしょ」
 たしかに、結果を出す前のアマチュアの作家を国が幽霊者として認めてくれるかどうかはあやしい。
「だからあなた、わたしのペンになってよ」
 急に本題をふられて、わたしはとっさには答えられなかった。
 ハルさんに目で助けを求めたが、
「刑事事件か、訴訟にでもならないと、除霊はしてもらえない」
 もっともらしことを言うが、おもしろいことになってきたと思っているらしいことは分かる。
「わたしは迷惑してるの」
 わたしが言うと、
「どうせ幽霊なんて、ひまでしょ」
 花子さんに図星をつかれてしまった。
「一日に一時間くらい、キーボードたたかせてもらえればいいの」
 強気に出られてしまうと、返す言葉がなくなる。
 幽霊は食べなくても寝なくても生きていけるし、性的な興味はなくしてしまうのが一般的だから、給料がどこに消えるかというと、インドアな遊びか、アウトドアの遊びか、ギャンブルか、人によってちがいはあるが、ほとんどは趣味の方面に決まってしまう。
「わたし、パソコンもってない」
「おれの、貸してやる」
 ひとごとのくせに、ハルさんは完全に花子さんの提案に乗ることを決めてしまったようだった。
「ワープロ検定、受けてない」
「あなたはなにもしなくていいの」
 花子さんにぴしゃりと言われて、わたしは断る理由がなくなってしまった。
「名義はわたしでいいの?」
 わたしが聞くと、花子さんは少し考えたが、
「それはしかたない」
 自分でうなずきながら言った。
 幽霊者ではない花子さんには、法律上の著作権や財産権がないから、彼女がどういうふうにわたしをあやつったところで、実入りはすべてわたしに来る。
「ほんもののゴーストライターだな」
 ハルさんがおもしろそうに言ったが、
「ゴーストライターのゴーストライターでしょ」
 花子さんに言い返されて、ハルさんは頭をかいた。
「お名前は」
 わたしが聞くと、
「若いころはね、ちぃちゃんって呼ばれてた」
 ちぃさんはなつかしそうに答えた。
 わたしにとってもなつかしい名前なような気がしたが、死んでしまう前のことはあまりおぼえていない。
 粒子を与えられた幽霊は、あまり重いものは持てないにしろ、物理的に人を傷つけることが可能になってしまうから、生前の記憶には検閲が入り、親しかった人や、死にまつわる相手についてのことがらは黒塗りにされてしまう。
 ハルさんが言うには、ちぃさんのほうがわたしよりもずいぶん年かさに見えるようだが、いつごろ死んでしまったのかわからないから、同い年のことだってありうる。
「わたしは、かほ」
 ちぃさんに言うと、
「どうやって書くの」
「ひらがなでいい」
 死んでしまったあとは、漢字よりもひらがなのほうが、いかめしくなくてしっくりくる。
 幽霊者の夏帆と書くと、なんだかうらみつらみのありそうな名前に見える。
「ペンネーム、どうしようか」
「話、早いじゃない」
「わたしも、いくらか書いたことがあるから」
「どうだったの」
「かすりもしない」
 生前、かすりもしないであきらめた道に、死んだあとに取り組むことになるとは、人生、いちど死んでみるものだなとわたしは思った。
「お客さん、呼んでるぞ」
 ハルさんに言われて、わたしは清掃中の札を取って、ステーションに戻った。
 会計を終えた若者が、店の駐車場からわたしのほうをじろじろ見ていたから、彼も幽霊者検定の五級くらいは持っていたのかもしれない。
 管理職には三級以上の取得が義務づけられるようになった昨今だが、いまのところ、幽霊者の書いた作品が芥川賞の選考対象にはならないらしいということを、わたしは了解している。
 幽霊者の社会進出は、規制に先んじる速さで広がりを見せていて、第一線にいる作家の何割が幽霊者なのか、はっきり言うことができるひとは、きっとひとりもいない。
 原稿の向こうの顔が生者なのか、死者なのか、編集者でさえ、判断がつかない。
 指紋がひとつもない原稿が、今日も出版社に届く。
※イラスト・小説コミュニケーションサイト「pixiv 」にて、同筆名で推敲前のバージョンを掲載中。


『量子テレポーテーション』


 牛乳を飲みくだして、今日のトーストはおいしくないなと思った。
 きのうのケンカのせいだと思って、廊下を見ると、ネコのルミ子さんはクローゼットにこもって、物音ひとつ立てない。
「そろそろ出てきたら」
 返事が返ってこない。
 ルミ子さんは怒っているときにやすやすと眠れる人ではないから、きのうのことをまだ怒っているのか、怒り疲れて眠っているのか、どちらかだと思った。
 ネコのルミ子さんとは言ったが、ルミ子さんは本当のネコでない。
 ベテルギウスのあたりからやってきて、住まいを探しているわたしの前に現れたとき、これはまるでネコのようだと思ったから、人に話をするときは、ネコのルミ子さんということにしている。
「怒ってるの。寝てるの」
 怒っていれば答えないだろうし、寝ていても答えないだろうから、どちらにしろ意味のない質問なのだが、トーストをたいらげてしまったので話しかけてみた。
 おいしくないときのトーストは、さっさと食べてしまうに限る。
 ルミ子さんのことを絵に描いて友だちに説明したことがあったが、背中に翼があったものだから、それは絶対にネコではないと言われた。
 絶対にと、付け加えるあたり、相手もさほど自信があるわけではないのだろうが、あるパイロットの話を借りれば、ヘビに飲まれたゾウの絵を描いたときに、他人からそれは帽子だろうと言われても、彼にしてみれば間違いなくヘビに飲まれたゾウの絵なのだから、わたしの場合も、ルミ子さんはネコだということになる。
「ポスターはさ、はがすから、出てきてよ」
 三べん言って、三べん無視されると、さすがに寂しい。
 ルミ子さんは、翼があるのに飛び立てない。
 飛び立てないと寂しいねと言ってみたことがあったが、飛べないほうがいいと、彼女は言った。
 ルミ子さんは、地球でないどこかの星から落っこちたときに、別の生き物とごっちゃになって、つばさがくっついてしまったらしい。
 身体に飛ぶ機能がそなわっていないから、ルミ子さんは飛べない。それでもルミ子さんは大変、軽いから、屋根の下にいないと飛んでいってしまう。
 飛ぶのと、飛んでいってしまうのは、違う。
 ルミ子さんは、自分で地上にとどまっていたいと思っても、本人の意思とは無関係に飛んでいってしまう。
 だから、わたしの家のクローゼットがお気に入りで、なかなか外へ出ようとしない。
 玄関も、ベランダも閉めてあるよと、わたしが言わないと、出てこない。
 一度、風船みたいなルミ子さんと言ったら、かほさんは風船じゃないくせにと叱られたことがあったから、やはりネコのルミ子さんということにしている。
 きのう、ポスターのことで、ルミ子さんの怒りを買った。
 わたしが模様替えをしようと思って、去年のままになっていたカレンダーをはがし、お気に入りの映画のポスターを貼ってみると、
「認めません」
 ひどく怒られた。
 認めないもなにも、ここはわたしの家なのだから、家人の自由にしてよいではないかと言ったら、
「かほさん、ずるい」
「なにが」
「わたしがいるから、家賃が安いのに」
 クローゼットに引っこんでしまった。
 そのまま、夜になっても、ルミ子さんは出てこなかった。
 地球の料理は口に合わないと言って、空気中の言葉を拾って食べているから、餓死することはないが、可燃ごみの袋を取り出せないのには困った。
 わざわざコンビニへ買いに行き、なんとかゴミ出しに間に合わせた。
 ルミ子さんのおかげで、寒い冬の晩にダウンジャケットを着てコンビニまでゴミ袋を買いに行ったのだと思うと、生ゴミを詰めている途中で怒りがわいてきた。
「家のこと、なんにもしないくせに」
 なしのつぶてだった。
「ずるいのは、ルミ子さんだよ」
 言ってしまったらわたしも引っこみがつかなくなり、リビングのポスターはそのままにして、わたしは夜道を、ゴミ出しのついでにテレーゼまで歩き、チョコレートサンデーを頼み、食べているうちに、自分ことがいやになってきた。
 いやになったから和解しようと思い、家に帰ったが、ルミ子さんは出てこなかった。
 夜が明けても、相変わらず、出てこない。
 出てこないから、考えあぐねて、わたしはうまくないトーストを、もう一枚焼いて食うのである。
 テレビをつけると、国会中継をやっていた。
 もうそんな時間かと思って眺めていると、クローゼットの開く音がして、ルミ子さんが顔を出した。
「ゴミ袋、増えちゃったかな」
 わたしに向かって聞くから、
「どうせ使うから、いい」
「お金、出そうか」
「わたしがあげたおこづかいでしょ」
「そうだった」
 それだけ話して、クローゼットの奥へ引っ込んでしまった。
 気分屋のあたり、やはり、ルミ子さんはネコに違いない。
 聞いてみると、ルミ子さんはポスターに描かれている映画の主人公が気に食わないのだという。
「決められて、約束されて、到達しちゃって」
 到達というのはよくわからないが、ルミ子さんが怒るのは、だいたい、うらやましいという感情がうまく処理できないときだから、きのうのことはわたしのせいではないなと思って、彼女の話を聞いた。
「わたしなんて、そのうち、空に落ちちゃう」
「いまだって軽いでしょ」
「ちがうの」
 ルミ子さんは両腕に力をこめて、わたしの目線までおりてきた。
「重力のはなし」
 クローゼットは暗くて、リビングは明るい。
 朝日がわたしの顔を横から照らすから、わたしの顔はルミ子さんから良く見えるのに、わたしはルミ子さんの顔をぼんやりとしか見ることができなかった。
 ルミ子さんの背中で、つばさがはためく。
「重力のことを思い出すと、急に背中がすうっとなって、わたしの重力がみんなと逆になって、つかまっているものといっしょに、空に落ちちゃうの」
 それならどうやって地球に来たのかと、わたしは聞いた。
「息が苦しくなって、割れてしまうかもと思うと、本当に割れてしまいたくなって、耳元で割れる音がして、気がつくと、別の場所にいるの」
 ルミ子さんの視線がテレビのほうへ行くから、気に触るのだなと思って、国会中継を消してやった。
「あの子は、みんなと一緒のところに、到達してる」
 テレビの上のポスターを指差して、言う。
 わたしが彼女の手を取ろうとすると、
「触っちゃだめ」
 ルミ子さんは手を引っ込めた。
「重力がひっくり返ったら、かほさんも一緒に、空に落ちちゃう」
 クローゼットの天井へ逃げてしまった。
「ほかの人をまきこんだら、果てに行ったときに、混ざっちゃう」
「屋根があるから、へいき」
「ブランコが引っこ抜けるくらいだから、わからない」
 彼女の毛並みは、赤い。
 赤いブランコといっしょに落ちたのだろう。
「いつか宇宙の一番、密度の小さいところに行って、光も、粒子も、引力も、ぜんぶ遠ざけて、わたし、ひとりぼっちになっちゃう」
 暗くて顔がよく見えなかったが、そろそろ泣くころだろうなと思った。
「そういうときは、割れちゃったらいいじゃない」
「割れたら、また、落ちなきゃいけなくなる」
 ルミ子さんは本当にネコだなと思った。
 ひとりですうっとなることを思い出して、高いところまでのぼっていくくせに、おりられなくなって怖がる。
 なんとかおりることができても、もう一度、のぼる。
「思い出して、すうっとなったら、空に落ちるの」
 わたしが聞くと、
「落ちる」
「忘れちゃえ」
 わたしがそう言うと、ルミ子さんは少しの間、黙った。
 わたしもそれにならっていると、
「忘れてても、思い出したら、またすうっとなる」
 鼻をすする。
「思い出さない」
「どうして」
「わたしが覚えておいてあげる」
 彼女の両手を握りしめると、風船のルミ子さんの指先がぱんぱんに、はちきれそうになった。
 わたしの力なのか、ルミ子さんの中の空気の圧力なのか、混ざり合って分からなくなる。
「わたしがルミ子さんと対の量子になって、ずっとルミ子さんの考えたことを覚えておいてあげる」
「量子って、なに」
「量子の情報はいつも対だから、ルミ子さんはずっと空に落ちることを忘れていられて、気にしないで生きていけるし、気にしないで死んで、再び生まれてくる」
「ふたたび?」
「再び」
「量子になったら、会えないね」
 ルミ子さんがわたしの背中に指をはわせた。
「ルミ子さんが忘れてる間ば、いつまでもわたしがいるって証拠になる」
「かほさん、ずるい」
「ずるいのだよ」
「いつでもずるい」
 わたしの頭をぽんぽんするが、ルミ子風船の中は空気ばかりで、全然痛くないから、ネコがじゃれついているようにしか感じない。
「安心しておやすみ。いつもわたしはずるいのだから」
「ずるいの」
 語尾を消して、ルミ子さんは深い息になった。
 今朝まで、一睡もしていなかったに違いない。
 ポスターをどうしようかと悩んだが、はがしてしまったらルミ子さんがまたずるいと言い出しそうなので、そのままにしておこうと思った。
 ルミ子さんがまたすうっとなるのかどうかはわからないけれど、ルミ子さんを養うのに充分なたくわえはある。
 彼女は言葉を食べて生きる生き物だから、毎日欠かさず声をかけてあげさえすればいい。
 眠ってしまったルミ子さんをクローゼットに浮かばせて、ラジオの電源を入れて、スーツに着替えた。
 眠ったまま、言葉をたんとお食べと、クローゼットの扉を閉める。
 言葉があふれる街で、電車に乗って、ノートを開く。
 ルミ子さんのために、美しい言葉を探す。