おや、ジョイ・サウンドのサイトでも採り上げられている。ということは、カラオケがある、ということか。それはすごい。

・いや、以前なら消えていたと思う。ひょっとして、スポティファイが採り上げたことで、カラオケ業界も見直しを行なったということなのかもしれない。人は世につれ、世は人につれ。カラオケ業界は音楽サブスクにつれるのかな。

・で、この曲、発表当時は、山形のかみのやま競馬のCMのBGMとして使われていたことを記憶している。当時、仙台に住んでいて、地方テレビのCMになじんでいたから知っております。そんなことも書いておこう。

・バラードの多いルイ子さんの曲では、こういうポップなものが少なめ。それだけに貴重といいますか、ファンとしては嬉しいことでした。いや、けっこうポップなものもあるのですけれど、なんとなくバラードシンガーなイメージは強いのも確かだし。
うかつなことに人にいわれるまで気づかなかったのだが、この厚い本の奇数ページから偶数ページへの文のまたがりが、ただの一か所もない。それがどうと説明はできないが、ただ、実に京極的だと思う。(北村薫「長大、重厚な “ 至福の時 “ /京極夏彦著「鉄鼠の檻」。初出『読売新聞』1995・4?。北村『書かずにはいられない』新潮社2014)

・縦書きの本だ。見開きの右ページが偶数ノンブル、左ページが奇数ノンブルになっている。だからこれは、「文またがり」がページをめくることに寄与していないということだ。

・と書けば分かってしまうが、文筆業の要は、「ページを繰らせること」だ。「読んでもらう」とは、内容での勝負のはずなのだが、そのテクニカルな手法として物理的にページをめくらせることがあるだろう。その初歩的な技法が「文またがり」、特に「ページをめくること」に直結する奇数ページから偶数ページへのまたがりなわけだ。

・そのまたがりを徹頭徹尾しないというはすごい。

・「文またがり」を「初歩的な技法」とは書いたけれど、技法とは言い条、普通に書いていればそうなってしまうものだ。意識しないでもそうなってしまうものなのだ。それを、徹頭徹尾しないというのだから、そこには何らかの意志があること、疑いない。つい、京極夏彦の意図が奈辺にあるかを探りたくなってしまう。

・いわば「ページをめくらせない」わけだから、内容によほど自信があるということか? あるいは「手を止めてこの見開きをよくよく読み込みたまえ」というメッセージなのかもしれない――さてさて、どちらかな。

・再掲。いやしかし、この前進感・自己肯定感はどうだ。シバジュン史上初ではないか?


・「自分」をやってていいですか、という人とは思えない。救急救命士の資格取得が何か影響してるのかな。


・このバージョンは、ついさっき知った。


・こちらがオリジナルなのかな。せつない感じによくあう声。