うかつなことに人にいわれるまで気づかなかったのだが、この厚い本の奇数ページから偶数ページへの文のまたがりが、ただの一か所もない。それがどうと説明はできないが、ただ、実に京極的だと思う。(北村薫「長大、重厚な “ 至福の時 “ /京極夏彦著「鉄鼠の檻」。初出『読売新聞』1995・4?。北村『書かずにはいられない』新潮社2014)
・縦書きの本だ。見開きの右ページが偶数ノンブル、左ページが奇数ノンブルになっている。だからこれは、「文またがり」がページをめくることに寄与していないということだ。
・と書けば分かってしまうが、文筆業の要は、「ページを繰らせること」だ。「読んでもらう」とは、内容での勝負のはずなのだが、そのテクニカルな手法として物理的にページをめくらせることがあるだろう。その初歩的な技法が「文またがり」、特に「ページをめくること」に直結する奇数ページから偶数ページへのまたがりなわけだ。
・そのまたがりを徹頭徹尾しないというはすごい。
・「文またがり」を「初歩的な技法」とは書いたけれど、技法とは言い条、普通に書いていればそうなってしまうものだ。意識しないでもそうなってしまうものなのだ。それを、徹頭徹尾しないというのだから、そこには何らかの意志があること、疑いない。つい、京極夏彦の意図が奈辺にあるかを探りたくなってしまう。
・いわば「ページをめくらせない」わけだから、内容によほど自信があるということか? あるいは「手を止めてこの見開きをよくよく読み込みたまえ」というメッセージなのかもしれない――さてさて、どちらかな。
・縦書きの本だ。見開きの右ページが偶数ノンブル、左ページが奇数ノンブルになっている。だからこれは、「文またがり」がページをめくることに寄与していないということだ。
・と書けば分かってしまうが、文筆業の要は、「ページを繰らせること」だ。「読んでもらう」とは、内容での勝負のはずなのだが、そのテクニカルな手法として物理的にページをめくらせることがあるだろう。その初歩的な技法が「文またがり」、特に「ページをめくること」に直結する奇数ページから偶数ページへのまたがりなわけだ。
・そのまたがりを徹頭徹尾しないというはすごい。
・「文またがり」を「初歩的な技法」とは書いたけれど、技法とは言い条、普通に書いていればそうなってしまうものだ。意識しないでもそうなってしまうものなのだ。それを、徹頭徹尾しないというのだから、そこには何らかの意志があること、疑いない。つい、京極夏彦の意図が奈辺にあるかを探りたくなってしまう。
・いわば「ページをめくらせない」わけだから、内容によほど自信があるということか? あるいは「手を止めてこの見開きをよくよく読み込みたまえ」というメッセージなのかもしれない――さてさて、どちらかな。