六
其の夜の夢に、亡き父の姿があり\/と桃丸の枕頭に現はれた。熱に浮かされてゐる桃丸は、それが夢であるといふことを意識しながら、矢張り夢を見てゐるので、同じ夢なら、父の姿なんぞよりも、あの白く美しいお縫さんの亡骸を、もう一度見たいもんや、なぞと思つたりした。
『薬は利 かん、酒を飲め、酒を、‥‥』と、父の声がまざ\/聞 えたやうな気がした。さうしてそれからはもう何も夢に現はれて来るものはなく、悪魔の苛責のやうな病熱の苦悶が、五体を弄 るばかりであつた。
夜が明けてから、『あの人』が枕頭へ来た時、亡き父が夢枕に立つたことを告げると、気の故 か『あの人』は此頃父のことを言はれると、おど\゛/して顔色を変へるやうであるが、それでも力強 い声で、
『おで さんが、あんたの病気を心配して、早やう癒るように教へて呉 れはつたんやら知れん。‥‥おで さんのお告 げの通り、お酒 ちいと飲んで見なはれ。』と、早速台所へ立つて、節用集が飲 み残したのを盃に一つ持つて来た。
桃丸は其の酒をグツと一つ飲むと、咽喉から腹の底へ、ずうつと父の恵 が染 み込んで行くやうでお腹 が急に温 まり、催してゐた使意も一時忘れて了 つた。
『こらよい、‥‥よう利くなア。』と、桃丸は感謝の声を揚げたが、何うしたことか、両の頬へ熱い涙がハラ\/と流れた。
『おで さんは、お酒が好きやつたよつてなア。坊 んにもお酒飲まして、病気癒して呉れはるんやろ。』とお加代は言ひ\/立つて、台所から燗徳利を持つて来て、盃と一所に枕頭へ置き、『あんまり余計飲んでも可かんやろが、ちいとづゝ、ちよい\/飲みなはれや。‥‥けど、お医者が来た時は隠 しとかんとわるいやろ。』と、眼をくしや\/さした。
さう思つて見ると、少し膨れてゐて、妊娠四ケ月ぐらゐらしいこの人のお腹が、桃丸は急に気にかゝつて、お縫さんの痛ましく美しい最後と思ひ合はせ、胤 の知 れぬ腹の子から、自分の家にも何か大きな騒動が猛獣の如く歩み寄つてゐるのではあるまいかと、心配に堪へられなくなつた。
少しづゝ酒を飲んだ故 でもあつたらうか。桃丸の病は思ひの外に早く恢復期に向つた。
一の檀家の国松はもとより、節用集も役場の手合 ひも、皆伝染を恐れて見舞に来 なかつたが、十吉と三荘とは毎日のやうに来て、
『えらいことをしなはるなア、そらいきまへんで、この大病で、しかも腹がわるいのに、冷酒 飲むなんて、‥‥』と、叱るやうに言つた。
けれども、桃丸は盃に一口 酒を飲む度 に、病神 が一寸 づゝ追ひ立てられて行くやうな気 がしてならなかつた。
幾度かこだはりのあつた末に、村の避病院は、到頭村会の決議を経て、光格寺と川を隔 つた対 ふがはの、小山の上に建てられることになつた。
桃丸は病の枕に、避病院を建てる大工の鑿 と槌との音を聞いてゐたが、其の棟の上る頃には、桃丸の枕も上つた。さうして村中 にはもう悪い病の患者は一人もなくなつて、赤く熟した柿の実が、高い梢に花の如く美しかつた。
『坊 んの病気も癒りましたよつて、‥‥』と、お加代は始終羽織の袖にお腹を掩ひ隠して、一時実家 の方へ帰つてゐたいと言ひ出した。何も知らぬ紅香 は、
『阿母 さん、いつまでも此処に居 まへう。‥‥』と、泣き声を出した。
節用集は立て腐れにならうとする避病院の留守番に住み込んで、窓から光格寺の庫裡を眺めながら、桃丸の姿を見出 すと、頻(しき)りと鉄砲を打つ真似をしたり、弓を引く恰好をして見せたりした。(完)
*大正六年七月十五日発行『中央公論』第三二年(巻)第八号(臨時増刊自然生活号)
*本文の整備には、杉山美和(岐阜大学教育学部4年)の協力を得ました。
其の夜の夢に、亡き父の姿があり\/と桃丸の枕頭に現はれた。熱に浮かされてゐる桃丸は、それが夢であるといふことを意識しながら、矢張り夢を見てゐるので、同じ夢なら、父の姿なんぞよりも、あの白く美しいお縫さんの亡骸を、もう一度見たいもんや、なぞと思つたりした。
『薬は
夜が明けてから、『あの人』が枕頭へ来た時、亡き父が夢枕に立つたことを告げると、気の
『
桃丸は其の酒をグツと一つ飲むと、咽喉から腹の底へ、ずうつと父の
『こらよい、‥‥よう利くなア。』と、桃丸は感謝の声を揚げたが、何うしたことか、両の頬へ熱い涙がハラ\/と流れた。
『
さう思つて見ると、少し膨れてゐて、妊娠四ケ月ぐらゐらしいこの人のお腹が、桃丸は急に気にかゝつて、お縫さんの痛ましく美しい最後と思ひ合はせ、
少しづゝ酒を飲んだ
一の檀家の国松はもとより、節用集も役場の
『えらいことをしなはるなア、そらいきまへんで、この大病で、しかも腹がわるいのに、
けれども、桃丸は盃に
幾度かこだはりのあつた末に、村の避病院は、到頭村会の決議を経て、光格寺と川を
桃丸は病の枕に、避病院を建てる大工の
『
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節用集は立て腐れにならうとする避病院の留守番に住み込んで、窓から光格寺の庫裡を眺めながら、桃丸の姿を
*大正六年七月十五日発行『中央公論』第三二年(巻)第八号(臨時増刊自然生活号)
*本文の整備には、杉山美和(岐阜大学教育学部4年)の協力を得ました。