三
庫裡の広い板の間には、上り口 のところへ丸炉を浮き上らしたやうな円形の大火鉢を据えて、それに割り木がぽツぽと燃えてゐるのに、せめてもの先住が盛りの頃の光景を偲ばせた。それにかゝつてゐる薬罐は黒燻りに、幾代かの煤をためて、出 がらしの番茶の湯気を、俺 の役はこれだとばかりに、広い口から濛々と吐いてゐた。
『和三さん見 い、この漆塗りみたいに黒 うなつてる板の間も、火鉢の下だけはちいと新らしいなア。‥‥この火鉢何百年て此処 にへた ツてるんやで。此方等 が覚 えてからでも、この火鉢は此処 でズツとへた つて、この薬罐に湯気 吐 かしてるもんなア。』と、まださう火の恋しくない時候ながら、十吉は大きな十能のやうな手を翳して、温まらうとする風に、懐かしい物 ごしをした。
『さア皆さん上つとくれやす。』と、先住の坊守りお加代は、唐草模様のある木綿の薄い座蒲団を二枚、古畳の上へ好 きほどに敷いて、優しい声で言つた。
『へたくし までが、十 ツさんのお相伴でえらいお雑作になります。』と、節用集は薄笑ひをして、『さア、十 ツさん何(ど)うや、お前 はんが正客 や。』と、背後 を顧 みた。
『まア\/、お前 はんは、なんぞごとのある時 、羽織着る人や。‥‥第一此方等 は足洗ふて来 るんが邪魔くさい。‥‥お前 はんだけ上らして貰 ろたえゝ、此方等 此処がえゝ。』と、十吉は板の間の上り框にどかり と腰を卸して、大火鉢の割り木の燃え工合を直してゐた。
『ほゝゝゝ、十 ツさんまアそんなこと言はんと、足洗ふて来て上つとくなはれな。あんたが上つてやないと、和 アやんも上 つて呉れはらんよつて、‥‥』と、お加代は台所から膳を持ち出しながら、十吉を促し立てた。
十吉が桃丸の古い利休下駄を提げて、井戸端へ足を洗ひに行つた間に、お加代は白瓜ののツペい に鰊の焼いたのなぞを膳の上へ載せ、引ツかけにいツぱい湯爛にしたのを、節用集の方の膳に付けた。
『お神酒 まで上 つたなア、勿体ない。』と、節用集は膝行 り\/膳の前へ寄つて、引ツかけの中のものに鼻をひこ付かした。
『お辞儀無しに頂きます。』と、十吉も足を洗つて来て膳の前へ座つたが、『此方 等はこないに改ると、折角の御 ツつおうが咽喉を通らん。』と、大きな手で引(ひ)ツ攫 ふやうに膳を持つて、板の間の大火鉢の横へ移り、
『此処がえゝ、此処がえゝ。‥‥此方等 の性に合ふたアる。』と、独りで笑壺に入 つた。
『十 ツさんも付き合ひのわるい男やなア、手が届かん、手が届かん。』と、節用集は引ツかけを高く差し上げて見せた。
『此方等 そんなものに用はないわい。そんな辛いもん何んで可味 いのやなア。』と、十吉は膳を引き寄せた。釜のまゝに出 された松茸飯がプーンと山の薫りを立てる。
『悪い病が流行 つてるさかいなア、十 さん、酒飲まんとあかんで、‥‥酒さい飲んどいたら、何 んなことがあつたかて伝染 らん。風邪 の神は膳の下 、時疫の鬼は徳利 の蔭、ちうてな、風邪 引いた折にや、飯をドツサリ喰や癒るし、時疫の流行 る時にや、徳利さへ出しといたら、病神は逃げよる。』と、節用集は二三杯の酒にもう上機嫌の酔ひ心地になつて、講釈口調で言つた。
『ほんまになア、此方等 覚えてからこんなことはまだなかつたで、何んでも村中 で百人からあるちうさかいなア。‥‥まだ何んぼ殖えるやら分れへんちうこツちや。』と、十吉はさも怖ろしいと言つたやうな顔をしながら、大きな五郎八茶碗へ湯気の立つ松茸飯を盛つて、茶碗ごと喰 べて了 ひさうな勢ひで頬張つた。
『赤痢の元祖はあの三荘や、あいつ が町へ博奕 打ちにいて持つて戻りよつたのが、村いツぱいに拡 がつたんや。あいつは碌なことしくさらん』と、節用集は先刻 から持ち続けにしてゐた盃を、伏せてある五郎八茶碗の糸底に載せて、徐ろに懐中の巡査煙草入れを抽き出した。
『三荘はんはもう快 うなつたんやな。まいど其処で見たが、よう肥えて病 ひあがりみたいやなかつた。
‥‥何んでもあの人は薬一服呑まいで、葱 の腰湯で癒したちうこツちや。』と言ひ\/十吉はもう膳の上のものを綺麗にして了つて、『大 けに御ツつおうはん。』と五郎八茶碗を伏せた。
『早いなア十 ツさん、俺 がまだこれに半ぼん飲まんのに、お前 はんもう仕舞 ひか。何んしよ年齢 が年齢 やさかい、達者さうでも食 が落ちたか。』と、節用集はまた仔細らしく首を傾けた。
『落ちるには落ちたが、この五郎八に五杯なら、まだ戒名 の命 くにや間があらうぞい。』と、十吉は腰の淀屋橋を探 つた。
『一寸 の間(ま)に五杯やつたか、ふうーん。』と、節用集は大仰に目を瞠つた。
『早 や飯 早 や糞 芸 の中(うち)ちうてなア、此方等 はこれが若い時から自慢や。』と、十吉はさも得意らしく言つた。
『そらさうと、村で避病院建てるんやさうなが、議員さんたち愚図々々 してゝ、根ツから捗 が行かんげな。』と、節用集は忙しさうに鉈豆で一服吸ふと、また手酌の一杯をグツと呷つて、半ば独言のやうに言つた。
『あゝ、悪い病人を入れる病院だツかいな。‥‥あれはお前 はん、ヘキ病院といふのやないか。何んでもあそこ へ入 つたらあかんげな。あれは殺しにやるとこやさうな。そんなものが和三はん、寺家 へも出 けますのかいな。‥‥そらえらいこツちや、強訴 もんやで。‥‥』と、十吉は身慄ひせんばかりに、厭やな\/顔をして言つた。
『お前 はんもヘキ病院の手合 ひか、村長はんからしてが、ヘキ病院て言ふてはるさかいな、アハヽヽヽ。』と、節用集の笑ひ声は俄に高かつた。
『ヘキ病院が何病院でもえゝが、そんな病人を殺しにやるとこを拵へるのは、ぞツとしまへんな。いづれ入費は小前の頭 へもかゝつて来るのやろがな。』と、十吉の声は細く悲しさうであつた。
『避病院がわざ\/病人を殺すといふのは、あれや嘘や。病院ちうもんは、あれや人を助けるところや。
病院へ入 つたら屹と殺されるなんて、そんな阿呆らしいことあれへん。』と、節用集は先づ眼のまわりから赤くして言つた。
『其のヘキ病院ちう地獄みたいなもんは、一体何処 へ建つのやろな。』と、十吉の言葉はもう他所 のことのやうに冷 かであつた。
『さればや、学校を建てる時は、村中で引ツ張り合ふて、到頭あんな寂しい野中へ持つていたんやが、避病院となると、今度はまだ押し合ひで、埒があかんのや、我 れんとこに病人があると思へや、ねき へ避病院が出 けたかて構やへんし、それに消毒ちうことをするよつて、一寸 も怖いことあれへんのに、議員さんが皆んな我れの家の近くへ病院の出 けるのを厭やがるんで、何遍村会開いても、遍照金剛 言ふてゝ、決 まれへんのや。村会議員なんて、薩張 りわや や。』と、節用集の耳朶はだん\/熱くなつて来たやうである。
『まアさうやつてる中 には、おひ\/寒 うなつて、悪い病も片付くやろ。南んまん陀仏、南んまん陀仏‥‥』と、十吉は眠 たさうな声を出した。
『さういふ訳にや行かん、お上 からの達 で、何 うしても避病院は建てんならんのやさかい。愚図々々 してたら、村長はんがお目玉や。』と、節用集は両手の母指 と食指 とで、大きな眼の玉と二つ拵へて見せた。
『其のお上 ちう奴 が碌なことさらさん奴 でなア、‥‥昔しみたいに公方さんや殿 さんがお上 なら、お上 もお上 らしいが、今は何んや、伊丹の郡長はんがお上 やないか。』と、十吉はせゝら笑つた。
『郡長はんがお上 ちうこともないがな。』と、節用集は酒とゝもに笑ひを呑み込み\/した。
『お上 ちうもんはなア、学校建てい、病院建てい、‥‥と普請ばツかりが好きで、其のたんびに小前いぢめや。小前の血の膏 絞つて、あんな大 けな学校建てたかて此方等 にや手習しに行く子が一人 居 るぢやなし、阿呆らしい話や。‥‥まいど も天保山で異人の戦 があつて、えらい怪我人やさうなが、肥料 にする干鰯 から何からかう高うなるのも、其の天保山の戦 の為 めやげな。其の戦 はまだこれから何年続くやら知れんさうなが、それもお上 が悪 いさかい、異人が戦 しよるんや。‥‥まいど も役場から其の天保山の戦 で死んだ異人の嚊 や子 を助けたるんや言ふて、何んぼでもよいさかい寄付せい言ふて来たが、此方等 は厭やゝ言ふたつた。異人が勝手に戦 さらして死によつたのに、それを日本人 が構 うたることあれへん。何んでも其の戦 の側杖で日本の船も沈んで、積んで来たもんが皆わやになつて、物がかう高うなるのやてな。』と、十吉は物識りの節用集の前をも憚らず、あべこべに講釈する風をして言つた。
『何言ふてるね、十 ツさん、天保山でそんな大戦 あつてたまるもんかいな。天保山は此処から六里やで・‥』と、節用集は呆れた顔をしながら、残り尠なになつた引つかけの酒を大事さうに注いだ。
『さア其処 や、此方等 もそれが心配でなア、戦(いくさ)が天保山だけで、済 んでるとえゝが、大阪の町へ異人の兵隊が上 つて来よつたら、えらいこツちや思ふて、‥‥』と、十吉は染々心配さうな顔をした。
『阿呆らしい十 ツさん、異人の大戦 はなア、何千里ちう遠いところにあるんや。』と、節用集は真面目に取り合ふのも阿呆らしいといふ顔をした。
『そんなこと言ふて騙 まさうと思ふたかて、此方等 騙 されへん。まいども雨の降つた日に、えらいこと大筒 の音が聞えてた。死 んだお婆 さんの話に聴いた大塩騒動みたいなことにならなえゝと思ふてるんや。』と、十吉は独りで固く呑み込んで了 つて、梃 でも動く様子はなかつた。
『まア天保山なら、天保山でもよいさかいなア、十 ツさん、其の異人の戦 のお蔭で日本 にもえらう金持 が出 けたるね。』と、節用集は何 うしても自分が話を聴く側ではなくて、人に話をして聴かさなけれや気が済まぬのである。
『戦 のお蔭で金持 になる、‥‥』と、十吉は不思議さうな顔をしたが、「あゝ分つたるがな、おほかた討死した奴 のほところ を探して、小使銭 や時計でも取つて来るんやろ、異人はドツサリ銭 持 つてよるいふこつちやさかい、兵隊でも三両や五両持つてよるやろ、それを集めたら大 けかろ。‥‥死人 に銭は無益 や、六文さへ残しといたツたら、あとは持つて来てもえゝな、成るほどぼろいこと思ひ付きよつた。』と、十吉はまた\/独り呑み込みをして、感心に堪へぬといふ風情であつた。
『そんなこつて、金持になるんやない。』と、節用集は空嘯くやうに言つた。
『やいや、そやろ。昔かて戦 があると、百姓は田ア踏み荒らされて、作物 はどだいごくわや になるし、銭 や取 れんし、仕様がないさかい、竹槍拵へて、道端 へ隠 くれてゝ、戦 に負けて逃げて来 よつた奴 があると、竹槍で突き殺して、鎧 兜 や持つてよる銭取つたもんやげな。百姓にや敵も味方もない、負けて手負 ひにでもなつて、殺しよさゝうな奴 が敵ぢや。田地作つて荒らされるより、其の方が何んぼ割 りがよかつたか知れんちうこつちや。‥‥そらあの浄 ろ理 にある光秀なア、あいつ も其の手で百姓に殺されたんやげな。大将やさかいなア、あいつ はこれたんと 持つてよつたやろ。』と、十吉は母指 と食指 とで円い形をして見せて、あべこべ に節用集へ話し込まうとするので、節用集は話の切れ目を待ち構へて、
『十 ツさん、えらいこと知つてるなア。そいで天保山に戦 があるなんて、途轍 もないこと何んで言ふんや。』と、感心したやうな、冷 かしたやうなことを言つた。
『天保山に戦 が無うて何 うせうぞい。此方等 は嘘言はん、其の戦 でかう物が高うなつたり、悪い病が流行 つたりするんやないか。お前 はんが言ふやうに、何千里も遠いところで異人の戦 があるんなら、何んでこないに物が高うなるもんか。‥‥戦 があると敵 はん。物が高うなつて、税が殖えて、小 前泣かせや。‥‥ 手柄立てた大将は、顔役でえゝかも知れんが、博奕 と戦 は此方等 嫌ひや。』と、十吉は何かの精が乗り移つたかと思はれるほど、節用集を前にして能く喋舌 つた。
椀の中の冷 めたのツぺい 汁を、微酔 の眼に睨み詰めたまゝ、節用集は黙 つて了つた。
*――つづく――
庫裡の広い板の間には、上り
『和三さん
『さア皆さん上つとくれやす。』と、先住の坊守りお加代は、唐草模様のある木綿の薄い座蒲団を二枚、古畳の上へ
『
『まア\/、お
『ほゝゝゝ、
十吉が桃丸の古い利休下駄を提げて、井戸端へ足を洗ひに行つた間に、お加代は白瓜の
『お
『お辞儀無しに頂きます。』と、十吉も足を洗つて来て膳の前へ座つたが、『
『此処がえゝ、此処がえゝ。‥‥
『
『
『悪い病が
『ほんまになア、
『赤痢の元祖はあの三荘や、
『三荘はんはもう
‥‥何んでもあの人は薬一服呑まいで、
『早いなア
『落ちるには落ちたが、この五郎八に五杯なら、まだ
『
『
『そらさうと、村で避病院建てるんやさうなが、議員さんたち
『あゝ、悪い病人を入れる病院だツかいな。‥‥あれはお
『お
『ヘキ病院が何病院でもえゝが、そんな病人を殺しにやるとこを拵へるのは、ぞツとしまへんな。いづれ入費は小前の
『避病院がわざ\/病人を殺すといふのは、あれや嘘や。病院ちうもんは、あれや人を助けるところや。
病院へ
『其のヘキ病院ちう地獄みたいなもんは、一体
『さればや、学校を建てる時は、村中で引ツ張り合ふて、到頭あんな寂しい野中へ持つていたんやが、避病院となると、今度はまだ押し合ひで、埒があかんのや、
『まアさうやつてる
『さういふ訳にや行かん、お
『其のお
『郡長はんがお
『お
『何言ふてるね、
『さア
『阿呆らしい
『そんなこと言ふて
『まア天保山なら、天保山でもよいさかいなア、
『
『そんなこつて、金持になるんやない。』と、節用集は空嘯くやうに言つた。
『やいや、そやろ。昔かて
『
『天保山に
椀の中の
*――つづく――