一
紫合と書いて、『ゆふだ』と読む。如何な学者も初めは首を傾ける、と村の父老は言つてゐる。旧記を調べると、夕田と書いたのもあるさうなが、徳川の時代から紫谷 村で通つてゐる。
一口と書いて、『いもあらひ』と読む村が、京の近くにある。其処から余り遠くないところに紫合 村はある。
白い玉を溶かしたやうな美しい水が、丹波の奥から流れて、茅渟の海に注ぐ。川の名は処 によつて変るが、中 ほどでは紫合 川といふ。巌を廻り、渓に沿ひ、淵をつくり、瀬をなして、長さ三十間の紫合橋 といふ土橋の下を、銀の箭のやうな勢ひで奔つてからが、紫合川となるのである。
紫合 村は、其の綺麗な川 を挟んで、両方に開けた僅かばかりの平地に、山を負ひ、山に抱 かれて、千五百ばかりの人口が、多くは藁屋根の下に散らばつて住んでゐるのである。
村の真ん中に、瓦葺きの大きな堂がある。天台に象つたといふ二重屋根で、川に臨んで、小山のやうなこんもりとした丘の上に建つてゐるから、高い屋根はいよ\/高くて、村中が其の棟の鬼瓦に睨み下 ろされてゐる。
鬼瓦の眼の真正面に当る家々では、藁葺きの煤 ばんだ軒に、いづれも鍾馗 の絵姿を貼り付けて、鬼に睨まれる災厄から遁 れようとしてゐる。
『鍾馗 さん強いで、‥‥長い剣提げて、黒い髭 生やしてはるさかいなア。この人にかゝつたら、鬼もあかん、ぼろくそ や。‥‥』
『鍾馗 さんと閻魔 はんと、どツちやが強 いやろ。‥‥すもん (角力 )取らしたらおも ろいやろなア。どツちやが勝ちやはるやろかいな。‥‥』
村の子供たちは、寺の大きな鬼瓦を眺めては、家々の軒下の鍾馗の絵姿と見比べて口々にこんなことをよく言つた。
『本堂の鬼瓦より、国さんとこの鬼瓦の方が怖いで。‥‥』なぞと、通りかゝつた若い衆は、子供だちに戯れつゝ行き過ぎた。
『呼 ぶより謗 れや、‥‥鬼瓦が来た。』と、子供の群 の一番大きいのが、ませ た物の言ひやうをして、寺の楼門の下を指 さしたが、成るほど、村一番の大百姓国松の家の下女お作が、鬼瓦と綽名に呼ばるゝ、反 ツ歯 の醜い顔を、七ツ下がりの薄日 に晒らして、縮 れツ毛のほつれを秋の風に嬲 らせながら、石段を下りて来た。
『やアーい、‥‥鬼瓦アツ。‥‥』と、一人の腕白は近づくまゝに、お作の方を向いて叫んだ。
『鬼瓦かて、あんたの世話になれしまへん。』と、お作は直ぐどんぐり 眼を嗔らして、持つてゐた空 の笊 を振り上げた。
『鬼瓦が眼剥 いた。‥‥』と、子供等は面白さうに棄台詞を残して逃げ散つた。
『ほんまに、子供の大人調弄 ほど、いかんもんはない。』と、お作はぶつ\/独言 をしながら、寺の崖を廻はつて、石塊 の多いだら\/坂を登つて行くと、昔し馬繋ぎのあつたといふ塀の崩れから、三荘 といふ吊 り髭 の三十男が現はれて、出会頭 に、
『作やん、何処 へ行 きた。本堂か‥‥』と、別に知りたくもなさゝうなことを訊 いた。
『さうだす荘兵衝はん、本堂へお大 持つて行きましたんや。』と、お作はつい先刻 まで大根のどツさり入 つてゐた笊 を振つて見せた。
『あゝさうか。』と、三荘は苦み走つた顔の鼻の先きに笑をいツぱい浮かべて、懐手のまゝ行き過ぎた。
『あの人、赤痢やつたのに、もう快 うならはツたんかいな。』と、お作はまた独言をして、皆 んなに三荘と呼ばれて通つてゐる三谷荘兵衛の、如何にも博奕打 ちらしい縞の袢纏の後姿を、稍長いこと、ぢいツと見送つてゐた。
*――つづく――
紫合と書いて、『ゆふだ』と読む。如何な学者も初めは首を傾ける、と村の父老は言つてゐる。旧記を調べると、夕田と書いたのもあるさうなが、徳川の時代から
一口と書いて、『いもあらひ』と読む村が、京の近くにある。其処から余り遠くないところに
白い玉を溶かしたやうな美しい水が、丹波の奥から流れて、茅渟の海に注ぐ。川の名は
村の真ん中に、瓦葺きの大きな堂がある。天台に象つたといふ二重屋根で、川に臨んで、小山のやうなこんもりとした丘の上に建つてゐるから、高い屋根はいよ\/高くて、村中が其の棟の鬼瓦に睨み
鬼瓦の眼の真正面に当る家々では、藁葺きの
『
『
村の子供たちは、寺の大きな鬼瓦を眺めては、家々の軒下の鍾馗の絵姿と見比べて口々にこんなことをよく言つた。
『本堂の鬼瓦より、国さんとこの鬼瓦の方が怖いで。‥‥』なぞと、通りかゝつた若い衆は、子供だちに戯れつゝ行き過ぎた。
『
『やアーい、‥‥鬼瓦アツ。‥‥』と、一人の腕白は近づくまゝに、お作の方を向いて叫んだ。
『鬼瓦かて、あんたの世話になれしまへん。』と、お作は直ぐ
『鬼瓦が
『ほんまに、子供の
『作やん、
『さうだす荘兵衝はん、本堂へお
『あゝさうか。』と、三荘は苦み走つた顔の鼻の先きに笑をいツぱい浮かべて、懐手のまゝ行き過ぎた。
『あの人、赤痢やつたのに、もう
*――つづく――