・たいていの日本語の動詞は、未然形に「ない」をつけることで否定の意味を表せる。ところが、何事も例外はあるもので、「ある」には「ない」が付かない。ちょっと丁寧な国語辞典なら(注記風にでも)書いてあることだ(デジタル大辞泉)。しかたないので、「ある」の反対語は「ない」という形容詞が担うことになっている。

・ただ、まれに「あらない」を使う向きもある。最近、話題になったのは、村上春樹『騎士団長殺し』。「私」を「あたし」と言ったり、「思ったんだ」を「思うたんだ」とウ音便にしたりと、言葉の上で、共通語はずしをやってるのが面白いが、やはり「あらない」が強烈。「ない」で済むはずだから。

・この場合は、まあ、キャラ付けということなんでしょうけれどね。標準のはずしまくりキャラというところがちょっと気になるところかな。

・ただ、真剣に表現の問題として、「ない」だけではもの足りず、「あらない」と言わねばならない、是非とも使いたいという、心情の吐露に出会った。
「ふたがしてない」では重みが足りなくて、何所かおかしい。まちがっている。「ふたがして……」。「ふたがしてあらない」と書きたいのだが、「あらない」という言葉はないようだ。「あらぬ」と言うと、此所までの調子と違ってしまう。「してない」では形が美しくない。「あらない」と言いたい。このインキつぼが、かぶるものなしで落ち着いている様子は、「あらない」と言うべきだ。この一つの言葉が許されない。明らかにこの事が言いたいのに、なぜ言葉の命じるままにこれをねじまげて、嘘を言わなくてはならないか。(『ことばと創造 鶴見俊輔コレクション4』)
・特殊な場面ではある、この引用の前の方には「机の上の物を写して、作文にまとめようとした」とある。いわば、言語による写生を試みているわけだ。絵画の写生の言語版。となれば、対象物を見つめるにも普段とは集中力が異なる。当然、よりよく写すために言語感覚も研ぎ澄まされる。そういう、いわば非日常的な状況だからこそ、日常的に使用している言葉への内省が深まっているシチュエーション。いつもいつも「あらない」を使いたいと思っているわけではあるまい。

・特別な事情があるとはいえ、「あらない」にたどりつき、その美点を見いだしている点に注意はしたい。もちろん、「ない」としか書けない共通語の縛りとのせめぎ合いに注目するところであるが、その状況を生んだのは、鶴見における「アラナイの発見」によるのだから、まずはそこに注目したい。

・どうぞ書いてください、と言ってやりたいことである。