・『精選版 日本国語大辞典』(電子辞書版)で「めかす」を見ていて、つぎの例に出会いました。
いくら金魚風にあはれっぽしくめかしても(洒落本・嘉和美多里(1801))
・現代なら「あわれっぽく」でいいところ。江戸時代だから「あわれっぽしく」になったというより、(極端にいえばこの例だけの)臨時的なものである可能性もあります。たとえば、「○○(っ)ぽい」という形式はあるし、大きな辞典なら説明もしています。が、「○○ぽしい」については説明がありません。当の『精選版 日本国語大辞典』もそうですが、やはり一般的な形式ではない、そうはよく見受けられない形だ、ということなのでしょう。
・したがって、江戸時代とは言っても「あわれっぽしく」の形は、少々原則はずれな、まぁ、いわば誤用なのだろうと思います。実をいうとその点はどうでもよくて、今、「あわれっぽしく」が目の前にあるのは現実なんだから、それがどのように生まれたかを考える方がずっと面白い。
・活用からいうと、現代の「あわれっぽく」はク活用、『嘉和美多里』のはシク活用になります。シク活用とはなにか、という点について改めて説く気はしませんが、次のような情報はあまり知られてないのかもしれません。「この活用の形容詞には情意的な意味をもつものが多い。」。さすが大辞泉(この記述があるとは、引くまでは思ってもみませんでした)。
・これは主として古語、たとえばその代表である平安時代の形容詞などをはじめとする古典語形容詞について言われます。が、そうした認識がいつまで続くのか。よりいえば、そうした認識が明確に意識されている例にであえるかどうかが興味深いところです。もちろん、その認識の反映として感情的表現の形容詞の造語などが見つかるのでもよい。
・「あわれっぽしく」には、その資格があるんじゃないかと思うんですが、どうなのか。シク活用の性格を把握し、それを応用したのでしょう。「あわれ」は感情(の様子)を意味するから、ク活用よりもシク活用の方がふさわしいんじゃないか、と考えたのでしょう。それを、通常の造語成分である「ぽい」の形式を破調してまで成し遂げた点に、認識の強さを見てもよい、というのが一つの回答です。もう一つはまた明日(枯れ尾花的なオチなんですが)。
いくら金魚風にあはれっぽしくめかしても(洒落本・嘉和美多里(1801))
・現代なら「あわれっぽく」でいいところ。江戸時代だから「あわれっぽしく」になったというより、(極端にいえばこの例だけの)臨時的なものである可能性もあります。たとえば、「○○(っ)ぽい」という形式はあるし、大きな辞典なら説明もしています。が、「○○ぽしい」については説明がありません。当の『精選版 日本国語大辞典』もそうですが、やはり一般的な形式ではない、そうはよく見受けられない形だ、ということなのでしょう。
・したがって、江戸時代とは言っても「あわれっぽしく」の形は、少々原則はずれな、まぁ、いわば誤用なのだろうと思います。実をいうとその点はどうでもよくて、今、「あわれっぽしく」が目の前にあるのは現実なんだから、それがどのように生まれたかを考える方がずっと面白い。
・活用からいうと、現代の「あわれっぽく」はク活用、『嘉和美多里』のはシク活用になります。シク活用とはなにか、という点について改めて説く気はしませんが、次のような情報はあまり知られてないのかもしれません。「この活用の形容詞には情意的な意味をもつものが多い。」。さすが大辞泉(この記述があるとは、引くまでは思ってもみませんでした)。
・これは主として古語、たとえばその代表である平安時代の形容詞などをはじめとする古典語形容詞について言われます。が、そうした認識がいつまで続くのか。よりいえば、そうした認識が明確に意識されている例にであえるかどうかが興味深いところです。もちろん、その認識の反映として感情的表現の形容詞の造語などが見つかるのでもよい。
・「あわれっぽしく」には、その資格があるんじゃないかと思うんですが、どうなのか。シク活用の性格を把握し、それを応用したのでしょう。「あわれ」は感情(の様子)を意味するから、ク活用よりもシク活用の方がふさわしいんじゃないか、と考えたのでしょう。それを、通常の造語成分である「ぽい」の形式を破調してまで成し遂げた点に、認識の強さを見てもよい、というのが一つの回答です。もう一つはまた明日(枯れ尾花的なオチなんですが)。