・「さげずむ」はちょっと困るけれど、面白い例だ。

・「困る」方は、こちらは何の落ち度もないつもりなのに、たとえば、原稿を見てくれる人から誤字・誤解と指摘されることだ。ちょっとバツが悪い。とはいえやはり、「さげすむ」では、どうにも落ち着かない。言葉としての体を成していないとすら感じる。私のゲシュタルトが許さない。

・「面白い」は、スタンスのズレが顕現されること。研究者である前に、言語使用者であるわけだが、ではどちらの立場に立つか。そんな迷いが味わえることが何やら楽しい。正しい形は分かっていても、それを使うと自分が「言葉を使う機械」に堕落するような気さえする。逆に、「さげすむ」に違和感を持つことで、かえって人間らしさが自覚できる気がする、といいますか。

・教育者としては「さげすむ」を推奨することになります。が、どうも自分を裏切っているようで落ち着かないぞ。やはり我がゲシュタルトが渋ります。

・つまり、「言葉は使うが、言葉には使われたくない」、そんな思いを露出させ、自覚させてくるのが「さげずむ」らしい。もちろん、「言葉に使われる」なんてのは、言葉が社会的な約束事であって、自分が社会の一員である以上、甘っちょろい我が儘以外の何物でもない。が、それでも、「さげずむ」を使(ってしま)うんだろうなと思う。