・2年ほど前の『週刊文春』だったろうか。とある連載記事を見ていたら、「私なんか、世の中の景気がよくならなくても一向に構わない」といったようなことが書いてあった。哲学かなにかやってる人だったかな。本物の隠者っているんだなと思った。高いことで有名な文藝春秋の原稿料なんかも全部寄付しているのだろう。
・でも、私は隠者じゃないから仕事にいく。世間あっての自分であり、職でもあるから、景気はよくなってほしいと願う、祈る。仕事があるから、傷心にひたってもいられない。今日も出かけるのだ。
・ゼミ生の教育実習の研究授業。見に行く約束をしている。さて、着るものは…… 涼しくなったとはいえ、スーツは盛夏物がよさそう。クリーニングに出したままのがあったはず…… ちょっと匂うな。何やらこう、ほこりっぽい香りを凝縮・濃縮したような感じだ。大手のクリーニング店は避けるべきか…… などと考えながら財布を内ポケットにいれると、がさごそと異物感がある。レシートのたぐいらしいが、ひっぱりだそうとすると、ちょっと手応えがある。おそるおそる引き出せば、5000円札ではないか。すこしひからびた感があるが。偉いぞ、一葉!
・頬ずりもそこそこに駐車場に向かう。と、「恐れ入ります!」と妙齢の婦人から声をかけられた。今日は女性に縁のある日か。「代車で借りたクルマの鍵が抜けないんですが、ちょっと見てやってくれませんか」と。他人様(ひとさま)のクルマまで手に負えないなぁ。なにせ、ちょっと挙動不審なことをすると、お構いなくビービー泣きだす愛車(=命名、雨子。これも女性か)で手一杯なのだよ…… たしかに抜けない。で、オートマのポジションをみればRらしい。バックでいれたんだね。ならばPまで押せば…… 見事、抜けました。
・はは~ん。灰色の脳細胞がうずく。
「普段お使いのクルマは、シフトレバーがフロア(床)から出てますね?」
「ど、どうしてそれを!?」
「いえ、簡単なことです。それはあなたの行動が、しかるべく教えてくれているのですよ」
「といいますと?」
「この代車のは、ダッシュボード下にシフトレバーがあります。Pまで戻すにはハンドル…… もとい、ステアリングの高さくらいまで左手を上げなければならない。そうですね?」
「あ、はい、その通りです! いま、確認できました」
「では、なぜあなたは、その高さまで上げなかったのか。そこが疑問でした。思うに…… いいですか、これからが問題の核心です」
「……はい」(ごく)
「人間は、えてして普段通りの行動をとりがちです。どんなときでもね。違いますか?」
「おっしゃる通りです」
「鍵をかけ忘れたかしら、と思いなおして確認にいくと、ちゃんと鍵がかかっている。そんなことが多くありませんか? いや、むしろ、鍵がかかってなかったことは「なかった」。そうじゃありませんか?」
「まったくです!」
「ことほどさように、人間というものは、普段やりつけている動作を、なかば無意識裡にしてしまうものなのです。逆に、やりつけないことは、とっさの時にはなおのこと、やりそうにない。そうですね?」
「はい」
「つまり、あなたが普段使われているクルマのシフトレバーの位置が、この代車のレバーの位置とまったく違っていたからこそ、Pポジションまでレバーが達しなかった。当然の帰結として鍵が抜けなかった……」
「そうか!」
「あとは逆をたどればいい。ダッシュボード下になければ、普通はフロアから出ているものですよね。そこであなたのクルマのシフトの位置が分かったという訳なのですよ」
「その通りです! 解説までしていただき、どうもありがとうございました。なんとお礼を申してよいやら…… 二度とこんな不調法なお願いはいたしません」
「いえ、なに。よくあることです。それでは世界平和の仕事が待っていますので、これにて失敬」
・などとやっていたせいだろか、研究授業には5分遅刻した。
・でも、私は隠者じゃないから仕事にいく。世間あっての自分であり、職でもあるから、景気はよくなってほしいと願う、祈る。仕事があるから、傷心にひたってもいられない。今日も出かけるのだ。
・ゼミ生の教育実習の研究授業。見に行く約束をしている。さて、着るものは…… 涼しくなったとはいえ、スーツは盛夏物がよさそう。クリーニングに出したままのがあったはず…… ちょっと匂うな。何やらこう、ほこりっぽい香りを凝縮・濃縮したような感じだ。大手のクリーニング店は避けるべきか…… などと考えながら財布を内ポケットにいれると、がさごそと異物感がある。レシートのたぐいらしいが、ひっぱりだそうとすると、ちょっと手応えがある。おそるおそる引き出せば、5000円札ではないか。すこしひからびた感があるが。偉いぞ、一葉!
・頬ずりもそこそこに駐車場に向かう。と、「恐れ入ります!」と妙齢の婦人から声をかけられた。今日は女性に縁のある日か。「代車で借りたクルマの鍵が抜けないんですが、ちょっと見てやってくれませんか」と。他人様(ひとさま)のクルマまで手に負えないなぁ。なにせ、ちょっと挙動不審なことをすると、お構いなくビービー泣きだす愛車(=命名、雨子。これも女性か)で手一杯なのだよ…… たしかに抜けない。で、オートマのポジションをみればRらしい。バックでいれたんだね。ならばPまで押せば…… 見事、抜けました。
・はは~ん。灰色の脳細胞がうずく。
「普段お使いのクルマは、シフトレバーがフロア(床)から出てますね?」
「ど、どうしてそれを!?」
「いえ、簡単なことです。それはあなたの行動が、しかるべく教えてくれているのですよ」
「といいますと?」
「この代車のは、ダッシュボード下にシフトレバーがあります。Pまで戻すにはハンドル…… もとい、ステアリングの高さくらいまで左手を上げなければならない。そうですね?」
「あ、はい、その通りです! いま、確認できました」
「では、なぜあなたは、その高さまで上げなかったのか。そこが疑問でした。思うに…… いいですか、これからが問題の核心です」
「……はい」(ごく)
「人間は、えてして普段通りの行動をとりがちです。どんなときでもね。違いますか?」
「おっしゃる通りです」
「鍵をかけ忘れたかしら、と思いなおして確認にいくと、ちゃんと鍵がかかっている。そんなことが多くありませんか? いや、むしろ、鍵がかかってなかったことは「なかった」。そうじゃありませんか?」
「まったくです!」
「ことほどさように、人間というものは、普段やりつけている動作を、なかば無意識裡にしてしまうものなのです。逆に、やりつけないことは、とっさの時にはなおのこと、やりそうにない。そうですね?」
「はい」
「つまり、あなたが普段使われているクルマのシフトレバーの位置が、この代車のレバーの位置とまったく違っていたからこそ、Pポジションまでレバーが達しなかった。当然の帰結として鍵が抜けなかった……」
「そうか!」
「あとは逆をたどればいい。ダッシュボード下になければ、普通はフロアから出ているものですよね。そこであなたのクルマのシフトの位置が分かったという訳なのですよ」
「その通りです! 解説までしていただき、どうもありがとうございました。なんとお礼を申してよいやら…… 二度とこんな不調法なお願いはいたしません」
「いえ、なに。よくあることです。それでは世界平和の仕事が待っていますので、これにて失敬」
・などとやっていたせいだろか、研究授業には5分遅刻した。