・同僚から聞いたんだけど、たとえば、この手の話。ファンタジーと現実の区別のつかない人間がいるらしい。困ったことだ。「あいまいな日本の私」どころではない。
・理系離れが叫ばれて久しいが、では文系が安泰かといえば、まったくそんなことはない。理系離れというのは、実は「好奇心喪失」とか、「論理的思考力の減退」とかいうべき問題である(なんだか前に書いたような気がしてきたが、こちらか)。ものごとを深く探究しようとする気持ちが育っていないのだ。
・また、探究のためには、相応の道具立てと論理的思考が必要だということも忘れられがちである。誰でもできるのが科学という手法だけれど、では何の準備もスキルもない人間にできるかといえば、それはまた別の問題である。そうしたことが理解されていないのだ。広く学術の危機として捉えるべき問題である。
・物理学会会員であろう「九州大学の助手」が、その実験をして研究発表をしたとか。本当だろうか。これはこれで、にわかには信じがたい。学会の研究発表の前には、学内で検討会があったり、指導者・指導教員が何らかのアドバイスをするもので、何段階もブレーキをかける機会がある。もちろん、学会だって、なんでもかんでも発表させるわけではなく、相応の見識で篩いにかけているはずだ。もし、そうした難関(?)をスルーして発表までたどりついたとしたら、暗澹たる気持ちになる。第2・第3のオウムが出てくるのは時間の問題だからだ。
・この種のトンデモは、宗教的な何事かと通底する部分がある。端的にいって「信じる」ということだが、どうも日本人は何でもかんでも信じてしまうらしい。もう少し宗教とは何かを学んで、信ずるに値するものを学んだ方がよいのではないか。その意味での宗教教育が必要になってきているように思う。
・お寺の和尚さんは、「合掌は、手のシワとシワを合わせてシアワセを願うものです」なんてダジャレにも劣るゴロ合わせを言っている場合ではない。仏の教えをかみ砕いて説くのは結構だが、世迷い言にしてしまっては元も子もなかろう。こういうところにも、遠因がある気がしてならない。仏教教学は、そうしたものではないはずである。人間とは何か、人間を人間たらしめているモノ、あるいは生命というものを、東洋流に追究した哲学であろうから。その一端を学ばせるだけでも、宗教観は異なってくるのではないか(偉そうに言ってるけれど、大学1年時にとった教養科目「宗教史」の知識をほぼ出ないのだが)。

武藤浩二「水からの伝言と学校教育」。長崎大学のリポジトリより。