すべての芸術は音楽の状態にあこがれる(リンク先、異説が多いのぉ。回答してあげるのはいいが、も少し責任感が必要でしょう。質問者のさばきも見どころ?)。自己完結的といいますか、音楽は、楽音そのもので音楽を表現するわけです。文学が言語を媒介にしないと何も語れず、絵画が絵の具・キャンバスという間接的な手法に依らねばならないのと対立的な存在様式である、ということかと思います。
・まぁ、そうでもないんだけどね、と思います。標題音楽という例外がすぐに示せる。R.シュトラウスが典型ですね。しかも、純粋に音楽的に聞いて楽しいかというと、そうでもない(申し訳ないが、嫌いなんです。いや、ついていけ(る能力がこちらに)ない、というのが本音か。>R.シュトラウス)。
・また、即興演奏以外では、楽譜という2次平面に展開する図形の集積が媒介になっている。その解読法は言語と同じく線状性に縛られている。紡ぎだされる音楽も、演奏家の解釈によって千差万別たりうる。こう考えると、「音楽の状態にあこがれる」というのは少々持ち上げすぎのような気もします。
・ところで、ふと思うんですが、「すべての国語学的研究は、○○の状態にあこがれる」と問うたとき、○○に当たるのはなにかと。国語学者が、一次資料に手を下し、磨き上げ、立論し、展開する。しかも、隣接諸学すらしばしばリードする…… これ訓点資料研究とか、抄物研究とかですよね。方言学や一部の社会言語学もそういう面があるかな。ほかはどうなんでしょう。国文学者や歴史学者の校訂した資料を使うのが一般的ではないのか。
・と、そんなことを築島裕『古代日本語発掘』を再読して、思ったりしています。来世では訓点資料を研究したく存じます。祈、後生善処。いやいや、実は、院生時代、築島先生の集中講義に啓示を受け、出版事情まで広く見渡さねば近世節用集研究はありえないと覚悟を新たにしたのでした。いま私があるのは築島先生のお蔭です。(ご本人も含め)ちょっと意外に思うかもしれないけれど。