
・鍾馗で有名なのは京都。京都での飾り方は、小屋根の上、2階の小窓などなど低め。岐阜は大屋根のてっぺんが9割以上。遠くから発見できるので楽です。ただ、小屋根とか玄関屋根に飾る例もあるにはあるので、油断大敵、要注意。ほとんど見逃してるんだろうなぁ。
・画像のは、見逃しようのないもの。掲げられたのは岐阜標準型もどき。やっぱり岐阜の鍾馗は、京都とかと役割が異なるのかもしれない。遥かに見はるかすことに意義があるのか、植木が邪魔なので高みにあげたのか。
・実は、何度か通っている、山県市掛付近の道に面したものなんですが、気がつかなかったなぁ。見れども見えず。やっぱり先に概念として「屋根には鍾馗がある」とインプットされていない時期に、いくら通ってもダメなんでしょうね。いや、単にそのころは、アマチュア無線のローター装備アンテナがあったのかもしれませんけれど。
・たぶん、これも「引き寄せ効果」で説明できそう。とともに、人間の認識ってのはパタン化されていて、そのパタンが頭にあれば認識もスムーズ何でしょう。音韻・音素の類もそうだし、すべての言葉もそうなんでしょう(まあ、当たりまえか。「初めて聞いた言葉」は「知らないん」だから、認識もへったくれもない。いや、「知らない」ということを認識できるのか)。
・連想。広島のアストラムラインの「安東」、多くの人がアンドウだと思ってしまう(昔のネタですみません)。