・『サイエンスzero』は、「シリーズ・人の謎に迫る④ ロボットと人間が向かいあうとき」。動作・身振りをいかに人間に近づけるか、で苦心する話しが前半。ちょっと興味深い。ロボット造りを通して、人間の身体の仕組みの絶妙さに気づく、という話はよくあります。それを乗り越えて、やっぱり人間に近づけたい研究者の苦心。
・素人目ですが、人間の動作ってメリハリがありますよね。サッと動いて、ピタッと止まる。「サッ」から「ピタッ」への移行が滑らかだけど急激な感じ。眺めている側は、「サッ」前・「サッ」後の姿勢を認識しているだけで、「サッ」中は特に意識して見ていない。ところが、ロボットだと「サッ」中の速度が平均化する。意識・認識してしまうほどの遅さになってるよう。人間がその遅さで動作すれば、見ている側は、なんらかの意味・事情があるだろうと勘繰ってしまう速度なんじゃないのか。急に動いて、急に止まる。そしてそれをスムーズにつなげる。そういうメカニズムが必要なんでしょう。人間は動作を止めるためにも筋肉を使って急制動してるんでしょうが、ロボットではその辺の制御が簡略になっているか。
・アニメもそうですね。人がコマ間を往復しつつ仕上げた手作業のアニメは自然に見ていられるけれど、CGのは、妙にぎこちない、こちらが意識・認識する必要がない部分まで見せられたり、「ピタッ・サッ」が「ピタッ・サッ」になってなくて、いらいらするものも、まだまだあるようですね。ディズニーのように自然すぎる(?)のもあるのですが。
・言葉でも似たようなところがある。何でもいいんですんが、〔akabane〕だと、aからkへ移るときの音なんて、(とりあえず)問題にしない、聞いていない。a・kの一番特徴的なところだけを(意識して)聞いているんでしょう。さらには、「ン」は全部同じ音だと思ってますが、発音の仕方自体は異なっている。
パンも〔pammo〕 パンだ〔panda〕 パンが〔paŋga〕
〔m〕〔n〕〔ŋ〕に共通する「鼻音」という特徴だけを聞いていて、他の性質は全部捨てています。メリハリ効いた聞き方をしている。
・極な部分に(だけ)私たちは反応しやすいらしい。また、反応できるよう、捉えやすいよう、外界を加工することもあるんじゃないか、などとも思えてます。何だか、話がすりかわっていくような気がしますが、たとえば「名付け」という行為もそうじゃないか。中途半端だと恐いわけです。烏龍茶を飲んで30分もすると頭痛がする。これはなぜだ。気味が悪い。でも、「アレルギー」という言葉を思い出して、不安ながらも納得する。そういう「極」を与えるのが、あるいは「極」であるような性格を付与するのが言語化の働きの一つでもある、と言えそうです。
・あるいは、言葉だけでなく、さまざまな外界に対して、「極」づけしているんじゃないか。人間は、そうしないと、外界を把握できない動物なのではないか。
・「極」と言いましたが、これは場面によって別の言葉に置き換えた方が分かりやすい。「音素」「性格」「類型」「典型」「○○らしさ」「枠」「属性」「位相」「地位」「身分」「分限」…… 人間はなぜ差別をするのか、ということにも接近できそうな気がしますが、もう少し考えます。
・素人目ですが、人間の動作ってメリハリがありますよね。サッと動いて、ピタッと止まる。「サッ」から「ピタッ」への移行が滑らかだけど急激な感じ。眺めている側は、「サッ」前・「サッ」後の姿勢を認識しているだけで、「サッ」中は特に意識して見ていない。ところが、ロボットだと「サッ」中の速度が平均化する。意識・認識してしまうほどの遅さになってるよう。人間がその遅さで動作すれば、見ている側は、なんらかの意味・事情があるだろうと勘繰ってしまう速度なんじゃないのか。急に動いて、急に止まる。そしてそれをスムーズにつなげる。そういうメカニズムが必要なんでしょう。人間は動作を止めるためにも筋肉を使って急制動してるんでしょうが、ロボットではその辺の制御が簡略になっているか。
・アニメもそうですね。人がコマ間を往復しつつ仕上げた手作業のアニメは自然に見ていられるけれど、CGのは、妙にぎこちない、こちらが意識・認識する必要がない部分まで見せられたり、「ピタッ・サッ」が「ピタッ・サッ」になってなくて、いらいらするものも、まだまだあるようですね。ディズニーのように自然すぎる(?)のもあるのですが。
・言葉でも似たようなところがある。何でもいいんですんが、〔akabane〕だと、aからkへ移るときの音なんて、(とりあえず)問題にしない、聞いていない。a・kの一番特徴的なところだけを(意識して)聞いているんでしょう。さらには、「ン」は全部同じ音だと思ってますが、発音の仕方自体は異なっている。
パンも〔pammo〕 パンだ〔panda〕 パンが〔paŋga〕
〔m〕〔n〕〔ŋ〕に共通する「鼻音」という特徴だけを聞いていて、他の性質は全部捨てています。メリハリ効いた聞き方をしている。
・極な部分に(だけ)私たちは反応しやすいらしい。また、反応できるよう、捉えやすいよう、外界を加工することもあるんじゃないか、などとも思えてます。何だか、話がすりかわっていくような気がしますが、たとえば「名付け」という行為もそうじゃないか。中途半端だと恐いわけです。烏龍茶を飲んで30分もすると頭痛がする。これはなぜだ。気味が悪い。でも、「アレルギー」という言葉を思い出して、不安ながらも納得する。そういう「極」を与えるのが、あるいは「極」であるような性格を付与するのが言語化の働きの一つでもある、と言えそうです。
・あるいは、言葉だけでなく、さまざまな外界に対して、「極」づけしているんじゃないか。人間は、そうしないと、外界を把握できない動物なのではないか。
・「極」と言いましたが、これは場面によって別の言葉に置き換えた方が分かりやすい。「音素」「性格」「類型」「典型」「○○らしさ」「枠」「属性」「位相」「地位」「身分」「分限」…… 人間はなぜ差別をするのか、ということにも接近できそうな気がしますが、もう少し考えます。