・近代文学の論文でデアル体を使っているのに、ふとダ体の文が現われることがある。
 芥川龍之介の『羅生門』が『今昔物語』巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を主要な典拠に仰いでいることはよく知られている。『今昔物語』の一挿話と芥川の『羅生門』とは、プレテクストとテクストの関係にあるのだ。芥川の『羅生門』をプレテクストの一部として引用しているのが、黒沢明の映画『羅生門』であることはいうまでもないが、当然のことながら今昔の異文(バリアント)としての変型の度合いは芥川の作品以上に強められている。(『文学テクスト入門』より)
 ひょっこり口語的な要素が顔をだしたようで、ちょっとしたおかしみを感じる。訓話をしている校長先生が「ですから、一所懸命に勉学に励もうじゃん!」(ズレ過ぎ?)とでも言ったかのような可笑しみです。
・デアル体のままではだめなのか? 「プレテクストとテクストの関係にあるのである」。悪くはないが、少々重々しいか。そのくせ「ある」の反復が、これはこれで可笑しいかもしれない。また、「あるのである」と書くことは何やら気恥ずかしいものがある(私は使ってしまいますが、気恥ずかしい感じも分かります)。それをきらって「だ」を使うのか。ただ、不幸にして文体の変更をともなうことになるけれど、こんな風に表現上の要請としては解決がつくか。
・内容からはどうか。しばらく分からず、不思議に思っていたが、思い返せば、上の例のように「のだ」の形が多いよう。また、この種のノダ文の頭には「つまり/言い換えれば/結局/要するに/早い話が」など換言系・集約系の接続語が入りそう。とすると、縷々説明された事柄を、結論的に(分かりやすく)言い換え、言い放つときに出てくるのではないか。ダ文の口語的なニュアンスも加味して「ぶっちゃけのノダ」とでも呼ぶことにしましょうか。