この生まれつきなのか僕にまつわる居場所がないのとはまた違った居辛さは何が起因するのかと自問する。

居場所はいつでもあった。いじめられる訳でもなく、成績も悪くなく、どちらかと言えば確実にユニークな目立つ存在として周囲の環境に存在していた。

しかし、窮屈でがんじがらめという訳でもなく常に居辛さが僕にはまとわりついていたのだなと最近になって特に思う。
それらは認識したり、言語によって明視化される訳でもなく常にまとわりついていた。それらを意識したり、感じずにはいられなかった。
団塊の世代はこうも元気なのかな?僕はこの世代に対面すると自分のエネルギーのなさやら物事に対する希望の持ち方に対して不足がちなんじゃないかなと思わせられる。その気持ちは不快というものではなく、恐縮といった感情が適当なんじゃないかなと思う。

僕は彼らに会うと何故だか知らないが自分の不足を突きつけられている様な気がして困ってしまうのだ。

例えば予備校時代に日本史を教えてくれた先生は全共闘世代だった。燃えるものがあって戦うものがある人たちに羨ましさを僕は感じていたし、多少の暑苦しさを感じたりもしていた様な気がする。

暑苦しい。

そう。僕の対面しているトレーナーもやけに暑苦しいのだ。けどワルい暑苦しさなんかじゃ全然ない。好ましい温度なのだけれど僕らよりも常温が暑い人。そしてそれに何の疑いも抱いていないし、同時代的に抱かなくても良かった人。

僕は確かに羨ましさを感じていた。それは同時代的に僕に許される体温じゃなかったからだ。

別に僕がこのジムに決めたのは彼の体温を感じたいとかじゃ全然ない。家から近かったし、団体行動が苦手な僕には小じんまりとした親密さがピッタシなんじゃないかと思ったからだ。それに彼はジムの謳い文句通りの懇切丁寧さが全身にまとわりついていた。66歳には不似合いな筋肉の様に世間の荒波を切り抜けてきたらしいのと不似合いにまとわりついていた。

それも暑苦しさの原因なのかな?

とにもかくにも僕は彼のジムに入門することにした。

四十以上も年下の僕に敬語を使い、きちんとした個人として扱ってくれる彼の下で筋力トレーニングに励むことにしたのだ。

筋力トレーニングが筋肉以外に何を生むのだろうか?純目的的には筋力トレーニングは筋肉を生むのが目的のはずだよな?

でも僕は彼にそれ以外のものを感じたのも確かだ。

とにもかくにも筋力トレーニングに励んでみよう。
彼は前代未聞のことに挑戦しようとしている。前代未聞のことだ。

彼自身の選手生活を振り返って見ると栄光あるもののはずなのに、どことない凡庸さがまとわりついていた。

どんな凡庸さかと言うと凡庸な栄光だ。栄光あるものであるはずなのにベルトコンベアに乗せられて栄光の道を歩いてきたと言える。いや、運ばれてきた。

同年代に比べて優れた体格を見込まれ進学校の柔道部に入部し、やや大らかに選手生活の歩みを踏み始めたのは他のエリート選手と毛並みが変わるかもしれない。

中学では県大会出場止まりだった。しかし、高校でその才能は花を開き始めて県上位に進出。

受験勉強を経て柔道の名門大学に入部し、彼の人生は決まった。